2009年8月29日土曜日

狗奴国・侏儒国

投馬国と邪馬台国は方位は南ですが距離がわかりません。投馬国は「水行二十日」、邪馬台国は「水行十日、陸行二十日」とされていますが、どのように考えてもこれが田熊・土穴からの距離だとは思えません。稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますから、投馬国と邪馬台国も田熊・土穴から三百里(130キロ)以内のはずです。

その南に狗奴国が在り、男子を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。

この狗奴国も方位が南となっているだけで距離が分かりませんが、『古事記』には「次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名 故筑紫國謂白日別 豊國謂豊日別 肥國建日向日豊久士比泥 熊曾國謂建日別」とあります。

今まで述べてきたことから筑紫國が女王国であり、熊曾國が侏儒国であることが理解いただけると思いますが、とすれば豊國も女王国に含まれ、肥國が狗奴国であることが考えられます。田熊・土穴の南といえば現在の国道三号線沿いの地域になります。

肥後の三号線沿いといえば山鹿郡・山本郡、菊池郡になりますが、狗奴国の官に狗古智卑狗がいます。『倭名類従抄』は菊地を「久々知」としていて、よく知られているように狗古智卑狗は菊池彦であり、菊池川流域の支配者であることが考えられます。

菊池川流域が狗古智卑狗の支配する国ということは、狗奴国は肥後国だということですが、肥後国(熊本県)といえば一つのまとまった地域と考えられがちです。しかしこれは行政区画が成立し固定した後のことで、それ以前は北の菊池川流域の玉名・鹿本郡・菊池郡は筑後文化圏に属し、その南がよく言われる「火の国」の文化でした。

北九州の甕棺文化を代表する須玖式土器の分布も、福岡県から熊本平野に及んでいますが、緑川流域より北に限られます。一方球磨川上流の人吉盆地では免田式という流麗な重弧文土器が発達し、それは主に南方に広がり鹿児島県や宮崎県の山岳地帯に及んでいます。

侏儒国の四千余里の終点は肥後と薩摩の国境であり、薩摩が侏儒国ですが、とすれやはりば狗奴国は肥後であることが考えられます。しかしその文化は南北で違うようです。その南半分は稍O(稍日向、または熊襲)に属しており、青銅祭器が見られません。

今まで考えられてもいなかったことですが、私は肥前の西半分の長崎県部分は狗奴国に属していたと考えています。前回に九州の弥生人骨には3タイプがあることを述べましたが、その図は土井ヶ浜人類学ミュージアム編『土井ヶ浜遺跡と弥生人』から引用させていただいたものです。

九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があることも判明していますが、「渡来系弥生人」の国が女王国であり、それが後に筑紫の国と豊の国になり、第2のタイプの弥生人の国が狗奴国であり、それが後に肥の国になり、第3のタイプの弥生人の国が侏儒国であり、それが日向の国になると考えればよいと思っています。

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