2009年8月7日金曜日

「従郡至倭」の行程 その5

倭人伝は末盧国について次のように記しています。これは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た帯方郡使の張政の見聞です。

末盧国に至る。四千余戸有り。山海に濱(ひん)して居す。草木茂盛して行くに前人(ぜんじん)を見ず。好んで魚鰒を捕え、水の深浅と無く、皆、沈没して之を取る。

「山海に濱して居す」というのですから、山が海にせまって平地の無いところに住んでいるのでしょう。草木が茂盛して前を歩く人が見えないというのですから、道らしい道もなく、潜水して魚貝類を採取する生活が伺えます。玄界灘沿岸の光景が述べられているようですが、佐賀県東松浦半島の呼子あたりの光景のようです。

末盧国については唐津平野とする説もありますが、唐津平野なら別の書きようがありそうなもので、これが唐津平野の光景だとは思えません。長い航海のすえに初めて見た倭国の光景が末盧国の海岸でしたが、その海岸が「従郡至倭」の行程の終点だったのです。

末盧国は一時的な寄港地であり、帯方郡使が東松浦半島に上陸し糸島郡まで陸行したという通説は間違っています。 髙木彬光氏の「邪馬台国の秘密」はこうした視点に立って書かれた推理小説ですが、これを史学の視点で見ようという動きはないようです。 通説では福岡平野まで船で行けばよさそうなものなのに陸行したとされています。

この陸行についてはデモンストレーションだったという考えもあります。しかし徳川時代の朝鮮通信使のように東海道を行くというのなら分かりますが、 「草木茂盛(もせい)して行くに前人(ぜんじん)を見ず」 という所を,重い荷物を担いでデモンストレーションしても何の効果もありません。考えてみれば滑稽な話ですが、それが通説として罷り通っているのが不思議です

おかしいといえばその方位もおかしいと言わざるを得ません。当時の中国人はデフレンシャルの原理を応用した「指南車」という儀礼車を造っています。その中国人が東を南と間違えることなどあり得ません。もしも間違えているのであれば邪馬台国はシベリアかアラスカになるはずです。

その方位が南であることから邪馬台国の位置を南に誘導する傾向がありますが、宮崎康平氏の邪馬台国=島原説などならいざしらず、伊都国=糸島郡、奴国=福岡平野とする通説では、その方位の東南や東が問題になります。ことに邪馬台国=畿内説を始めとする、北九州以外の諸説は東を南としないと成立しません。

そこで李氏朝鮮時代の1490年に作られた「混一彊理歴代国都之図」などまで持ち出して、東を南と言いくるめる必要も出てきます。しかし「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっていますから、南は南のままでよいのです。末盧国から陸行が始まるわけではありません。

玄界灘沿岸には多くの神功皇后伝承が見られます。私は九州で活動する神功皇后は (斉明天皇+卑弥呼÷2=神功皇后) だと思っていますが、伊都国=糸島郡、奴国=福岡平野とする通説も神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとして創られた地名を根拠にしたものと考えるのがよいでしょう。

『古事記』『日本書記』と関連させて古代史を考える時、必ず突き当たるのが神功皇后と物部氏で、そこで前後の脈絡が途絶えてしまいます。特に神功皇后の場合はそれが顕著で、応神天皇の出自と関連するようです。史実を探求するのであればこの通説から離れてみる必要がありそうです。

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