2009年8月26日水曜日

「不属女王」の諸国 その1

今まで述べてきた国は九州に有った国ですが、倭人伝は本州や四国にあった国のことも記しています。弥生時代の宗像海人、那珂海人はおぼろげながら本州の東端のことも知っていたようで、これは北部九州と出雲(山陰地方)や越(北陸地方)、あるいは瀬戸内との間に交流が有ったことを表しています。

女王国の東、海を渡り千余里。復(また)国有り。皆倭種

田熊・土穴から千余里(六五キロ)は門司・下関あたりになります。海を渡ったところの倭種の国は周防(山口県)です。図の安国寺式系土器(西瀬戸内系土器と呼ぶ研究者もある)の分布圏の内の中国地方部分を言っているようです。

周防の響灘沿岸部では下関市梶栗浜などで細形銅剣が出土しており、北部九州とは細形銅剣の分布圏を形成しているように見えます。この地域には北部九州(高三潴式土器分布圏、女王国)と同時期に朝鮮半島から渡来してきた人々の国があるようです。

倭人伝はまた「又裸国・黒歯国有り。復(ま)た其の東南に在り。船行一年にて至る」とも記しています。田熊・土穴の東の海が関門海峡なら、裸国・黒歯国は周防灘か豊後灘を渡った四国と考えることがでます。図の安国寺式系土器の分布している四国西部に裸国・黒歯国が有ると考えられます。

四国西部には北九州で鋳造された銅矛が多数流入してきており、北九州の影響が強かったことが考えられます。ことに広形になると瀬戸内東部には見られなくなるのに対し、四国西部では激増していますが、女王国がこの地域を支配しようとしているようで、倭人伝が裸国・黒歯国に言及していること自体が、このことを表しているようです。

しかし船行一年だと太平洋のはるか彼方ということになりそうですが、三世紀の宗像海人がハワイやアメリカのことを知っているわけがありません。私は原文の「又有裸国・黒歯国。復在其東南船行一年可至」を「又有裸国・黒歯国其東南。復在国船行一年可至」という意味に解釈しています。

「有」には所有しているといった意味があり、在には存在しているといった意味があります。従って「有」が裸国・黒歯国に係る文字であり、「複在」は裸国・黒歯国の他にも国が存在しているという意味だと思うのです。 二つの情報が混乱しているのでしょう。

裸国・黒歯国は女王国の東南の四国西部にあったが、さらに東には出雲や越、大和や尾張があり、その東端に至るのに船行一年を要すると解釈していますが、図の青木Ⅱ式・上東式・唐古Ⅴ式土器を使用している人々の国があるというのです。 なお次回に述べることに関連しますが、図の熊本・長崎県に分布する土器が狗奴国の土器であり、鹿児島県に分布する土器が侏儒国の土器です。

青銅祭器の分布から見ると日本海側は信濃川流域まで、太平洋側では天竜川流域までの知識はあったが、それ以東のことは詳しくは分からず、その東端に至るのに一年を要すると考えられていたのでしょう。現に信濃川流域の長野県中野市、柳沢遺跡では大阪湾形銅戈7本と共に、九州形銅戈1本が出土しており、これで信濃の九州形銅戈の出土は2本になっています。稍筑紫が女王国であれば日本列島の説明としては当然このようになるはずです。

下関市の住吉神社は福岡の住吉神社、大阪の住吉神社とともに、日本三住吉の一つに数えられていますが、壱岐と対馬の住吉神社も延喜式内社で歴史が古く、これらの住吉神社をつないでいくと、大阪湾から朝鮮半島に至る航路が想定できます。同じことは阿曇、宗像系の神社にも言えることであり、三世紀にあっても北部九州と大阪湾を結ぶ瀬戸内海航路が存在したでしょう。

当然瀬戸内海航路だけでなく日本海航路もあり、北部九州は出雲や越とも交流があったはずです。出雲には宗像海人の影が濃厚で、阿曇、那珂海人との交流はあまり無かったようです。出雲大社の祭神オオクニヌシがスサノヲの子とされていることに見られように、出雲は宗像海人と同盟関係にあったようです。

本州西半の弥生文化には共通性があり、青銅祭器の分布は越前(福井)、信濃(長野)、伊豆(静岡)が限界ですが、関東地方では青銅祭器にかわるものとして有角石器が用いられていたと考えられています。阿曇、那珂、宗像など玄界灘沿岸の海人は越との交流で、北陸、東海についてはある程度の知識を持っていたが関東、東北地方についてはほとんど知られておらず、これが「船行一年可至」という記述になったと考えられます。

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