先に述べたように国名のみの二一ヶ国の一六番目の邪馬国以後は豊後にあったと考えていますが、最後の奴国は直入郡です。この国については「東南陸行百里」の奴国の重出ではないかという考え方があります。このことに関連して『後漢書』に次の文のあることに注意が必要です。この文は解釈しにくい文で、倭人伝を参考にしないと理解できません。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭国の極南界也
この文は建武中元二年(五七)年に遣使した奴国が「倭国の極南界」に位置しているように読めますが、「倭国の極南界也」は倭人伝の「女王の境界の尽きる所」と同じ意味だと解釈することができます。大夫と自称した使人は直入郡の人であり、金印を授けられた奴国王は遠賀川流域に居たと考えることができます。
直入郡は豊後、肥後、日向三国の国境が交わる所であり、一世紀にあっては倭國の極南界であり、三世紀にあっては女王の境界の尽きる所でした。そして現在では大分県と熊本県・宮崎県の県境に位置しています。この『後漢書』の文から一世紀の半ばに、三世紀の女王国の領域がすでに成立していたことが考えられ、またそれが倭国であるという認識があったことがわかります。
『後漢書』の記述は金印を授与された奴国王よりも、大夫と自称した使人の方に注意が向けられています。この大夫と自称した使人は大野川流域に盤踞した古代豪族、大神氏の遠祖であることが考えられます。豊後、肥後、日向三国々境の祖母山には大神氏の始祖伝承があり、大野川流域には大神氏の伝承がいくつもあって、大神氏は豊後海部の佐伯氏とも関係があるとされています。
次有奴国、此女王境界所尽。其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗。不属女王
その南に狗奴国が有りますが、記述順からいえば直入郡の南が狗奴国ということになり、直入郡の南の律令制日向国が狗奴国ということになります。しかし女王に属していない国の方位、距離は田熊・土穴を起点にしていますから、狗奴国も田熊・土穴の南に位置していると考えないといけません。
これは三世紀の女王国の国境の原型は一世紀中葉にすでに存在していたと考えなければならないということであり、その奴国は倭の南境であるという認識があったということです。それには地勢や通婚が影響していて、文化の違いが国境の位置を定めていると考えなければいけません。
ここで稍について考えてみる必要がありそうです。稍には「王城を去ること三百里」という意味と「方六百里」という意味がありますが、後漢・魏王朝は倭人の王に六百里四方の支配を認めています。前述のように私は北部九州を中心とする稍Mに肥後の北半と周防・長門を入れていますが、肥後の北半を稍Mに入れたのは、北半に青銅祭器が分布しているのに対し南半には分布していないからです。
九州の青銅祭器の分布を見ると大分県臼杵と熊本県八代を結ぶ、地質学上の臼杵-八代構造線の北側に多く南側にはほとんど見られません。前回には肥前の西半にも青銅祭器がみられないことを述べましたが、構造線が九州山地を形成し人々の交流を阻害しているからですが、肥後北部は筑後との通婚が多かったと考えることができます。
このため肥後北部には銅矛・銅戈が多いのですが、このように考えると中国は肥後の北半を倭王(三世紀にあっては女王)が支配することを認めているが、実際には支配していない地域であることが考えられます。このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。倭人伝は次のように記しています。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王の卑弥弓呼と素(もと)より不和。倭は載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
倭人伝は女王国と狗奴国は元来から不和の関係にあったとしています。「卑弥弓呼素」については五文字全体を人名とする説もありますが、「素」は「もとより」という意味だとする説を採りたいと思います。狗奴国と女王国の不和の関係は、はるか以前から続いていたというのです。
その不和の原因は、女王国が冊封体制によって狗奴国の北半(肥後北半)の支配を認められていると考えたのに対しそれを狗奴国が認めていなかったことに起因するようです。私は1世紀末からに2世紀初頭に、卑弥呼が共立された倭国大乱に匹敵するような大きな争乱が起き、そのことが原因になって奴国王が滅び、面土国王の帥升が倭王になると考えています。
その争乱も、三世紀の狗奴国と女王国の不和の関係と同じ原因で起きたと考えられ、不和は一世紀以来のものであったと考えています。
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