2009年8月9日日曜日

「自女王国以北」の国々 その3

昨日ネット上で面白い記事を見ましたので引用させていただきます。「従郡至倭の行程 その5」 に関連するものです。通説では帯方郡使は末盧国に上陸し、伊都国まで陸行したとされていますが、その伊都国では女王が諸外国に使節を送る時や、諸外国の使節が着いた時に一大率が津(港)で捜露を行ったとされています。

投稿者のご指摘のように、津で捜露が行われるということは船が出入りしているということ考えてよいでしょう。とすれば帯方郡使は末盧国に上陸し伊都国まで陸行したが、文書や賜遺の物を積んだ船はそのまま伊都国の港に着いたいうことになりそうです。

帯方郡使は「草木茂盛して行くに前人を見ず」という所を陸行し、その沖には今まで乗っていた船が並走しているという珍妙な光景が出現することになります。 投稿者は陸行した時と水行した時の2度の遣使があったと考えておられるようですが、言われてみればその通りです。気がつきませんでした。

いずれにしても帯方郡使は末盧国に上陸し伊都国まで陸行したという通説は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする『日本書記』の記事から生まれたものです。通説は矛盾だらけであり、陸行の必要はありません。末盧国は一時的な寄港地なのです。

帯方郡使が末盧国に上陸していないということは、糸島郡は伊都国ではないということです。私は国名のみが列記された21ヶ国の最初の斯馬国は「島の国」で、これが旧志摩郡であり、旧怡土郡は邪馬台国の一部だと思っています。

大宰府天満宮蔵『翰苑』に邪届伊都、傍連斯馬とあります。この文は邪馬嘉国(書によって嘉、台、壱と混乱しているがいずれも邪馬台国のこと)が、伊都国に届く一方で斯馬国に連なっていることを表していると考えることができます。

私は伊都国は田川郡だと考えていますが、この斯馬国が志摩郡であり、邪馬嘉国(邪馬台国)の傍に連なっている部分が怡土郡だと考えます。 邪馬台国の戸数は7万ですから相当に広い地域を考えなければいけませんが、私は当時の戸数を律令制の郡当たりで平均するとは7千戸程度になると考えています。

7万戸は10郡くらいになると思いますが、それは筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側になると考えています。この理屈で言うとむしろ志摩郡も邪馬嘉国(邪馬台国)であってもよいようですが斯馬は島のことでしょうから、それを志摩郡とするのがよいと思うのです。

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