2009年8月28日金曜日

「不属女王」の諸国 その2

倭人伝は「又有侏儒国、在其南、人長三四尺、去女王四千余里」と記しています。女王を去ること南四千余里に侏儒国が在るというのですが、私は千里を魏里の150里だと考えています。一里を434メートルとすると千里は65キロであり、四千里は260キロになります。

千里を65キロとすることの当否は対馬南島の南北が400里(17、4キロ)とされ、壱岐の南北が300里(13キロ)とされていることから判断できることです。北部九州のどの地点から見ても侏儒国は南九州にあることは間違いありません。田熊・土穴の南四千里は肥後と薩摩の国境になりますが、薩摩が侏儒国なのです。

昭和33年に鹿児島県山川町成川遺跡で232体の人骨が調査されました。古墳時代の遺跡ですが、その内の26体の成人男性の平均身長は160、8センチ、頭形示数は83、9であったということです写真左は種子島の広田遺跡の人骨ですが、著しい低身長で短頭です。

成川遺跡の調査では比較のために当時の山川町民61名の身長が計測されました。それは160、7センチであったということで、古墳時代と現代という時代差はあっても、その特質が変わっていないことが注目された調査でした。

侏儒国人の人長三四尺とはこの低身長を言っているのですが、一尺は4〇センチほどになりそうです。この国の人たちが後に隼人と呼ばれるようになりますが、縄文時代以来の形質を受け継いでおり、渡来人との混血が無かったためだと言われています。成川遺跡は図の薩摩半島の最南端にありますが、著しい低身長で短頭という特質は隼人と呼ばれる人々の特質でもあるようです。

弥生時代の人骨は、北九州(福岡・佐賀、一部熊本県)、長崎県西部、鹿児島県南部・種子島の九州地方と、山口県西部(土井が浜・中の浜・吉母浜)から大量に出土したものの、その他の地方からは殆ど出土例がありません。

これは日本の土壌はおおむね酸性なので保存に適した条件がたまたま満たされた場合に限られるからで、出土したこれらの弥生人骨は大きく3つのタイプに分類されます。

第1のタイプは、北部九州・山口タイプで大陸からの「渡来系」であり、顔の高さが高く(長い)、身長も高く、顔の彫りが浅いのが特徴です。土井が浜、金隈もこれに属しています。

第2のタイプは、西北九州の弥生人で、顔の高さは低く横幅が広い(広顔)、低身長、鼻根からあごまでが短くて彫りが深く、縄文人と類似しています。長崎県、熊本県、及び佐賀県の砂丘につくられた土坑や石棺から出土しています。

第3は南九州・離島タイプとでも呼ぶべきもので、「西北九州」タイプ以上に「低・広顔」の傾向が強く、頭部を上から見た時、円形に近い短頭形で、著しく低い身長を持っています。鹿児島県南部の「成川遺跡」、種子島の「広田遺跡」、及びその間にある離島の「椎ノ木遺跡」などから出土しています。

3タイプの内、第2、第3のタイプの弥生人に見られる特徴は、はその地域の縄文時代人の特徴で、これらの弥生人は縄文人の子孫と考えられます。これに反して第一のタイプの弥生人は、全く縄文人の特徴を残していません。

弥生人骨の研究者だった金関丈氏は、大陸からの渡来人か、或はその子孫であろうという仮説を唱えましたが、この説は、今日では学会でも支持されて主流となっています。このタイプを「渡来系弥生人」と呼ぶ研究者もいます。

九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があることも判明していますが、「渡来系弥生人」の国が女王国であり、第2のタイプの弥生人の国が狗奴国であり、第3のタイプの弥生人の国が、侏儒国だと考えればよいと思っています。第2のタイプが「熊襲」であり、第3のタイプが「隼人」のようです。

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