2009年8月5日水曜日

「従郡至倭」の行程 その3

今回は直線行程と放射行程に触れてみたいと思いますが、倭人伝の地理記事を帯方郡から邪馬台国まで一線上に連続して位置していると読むのが直線行程説です。気が付いて調べ直してみましが、東夷伝中で直線行程になっているのは、倭人伝のごく一部分だけで、他にはないようです。

東夷伝の地理記事はすべて「稍」の考え方に従って書かれており、直線行程は東夷伝中でも倭人伝の「従群至倭」の行程(帯方郡から末盧国まで)のみに見られるだけの特殊なものす。これは倭が大海中の島国のために放射行程の記述ができないことによります。

『日本書紀』神功皇后紀は倭人伝を引用するなどして、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、そこから肥前松浦(まつうら)郡=末盧(まつろ)国、筑前怡土(いと)郡=伊都(いと)国、那珂(なか)郡=奴(な)国、宇美(うみ)=不弥(ふみ)国、筑後妻(つま)郡=投馬(とうま)国、山門(やまと)郡=邪馬台(やまたい)国という説が生まれました。

と言うよりも倭人伝に合わせて地名が作られたようです。これが最初の直線行程説になっています。これに対し帯方郡から伊都国までは直線行程だが、以後は伊都国を中心にして放射状に位置していると読むのが放射行程説です。

稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますが、その方位、距離の起点は王城になり、その地理記事は放射行程になります。 放射行程は「稍の考え方」に基く記述方法なのです。ただしその千里は300里ではなく半分の150里です。

先述したように東夷伝の記事はすべて「稍の考え方」で書かれていますから、本来なら倭人伝には直線行程はないはずですが、倭国は大海中の国なので国境を接する国も郡もなく、放射行程では国の位置を説明することができません。そこで帯方郡から倭国に至る行程を、直線行程で説明しています。

確かに倭国の位置は直線行程で説明できますが、倭国内の地理記事には直線行程では理解できない部分があります。そこで榎一雄氏などが放射行程説を提唱しました。従来の説では稍のことなど考えられもしていませんが、放射行程とは倭人伝にも「稍」の考え方が見られということなのです。
 
榎氏は末盧国までの記事には「至」の文字が使用されているのに、同じ意味の伊都国の記事には「到」の文字が使用されていることから、伊都国が放射の中心だとしています。また末盧国までの記事は方角、距離、国名の順なのに,伊都国以後は方角、国名、距離の順になっていることもその根拠としています。

榎氏の説は邪馬台国=九州説に有利で、九州説と畿内説が明確に区別できるようになりましたが、榎氏の説が完全無欠かというとそうでもありません。このことを指摘したのが高橋善太郎氏です。(「『魏志』倭人伝の里程記事をめぐって」愛知大学文学部論集、昭和四三年一二月、四四年一二月)

伊都国は一大率がいたり、王がいながら女王国に統率されていたり、あるいは帯方郡使が常に留まる所であったりと、倭国内でも特殊な国ですが、高橋氏はこの伊都国の特殊性に着目したのが榎氏の説であり、至と到の文字の使い分けや方角、国名、距離の記述順に意味はない述べています。

確かに到の文字は狗邪韓国にも用いられており、至と到の文字の使い分けが放射の中心であることを表すとは言えないし、方角、国名、距離の記述順も偶然にそうなったと考えるのがよいようです女王国は「王城を去ること三百里」以内のはずですから、放射行程であることを認めなければならなようです。

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