2009年8月20日木曜日

伊都国 その1

それでは面土国を放射の中心として各国を見てみましょう。起点は釣川中流域の田熊・土穴付近で、JR九州鹿児島本線の田熊駅と赤間駅の間になります。稍の考え方では方位、距離の終点は国境や海岸、大きな河川などで、国都など中心地が終点になることはありません。一里は六五メートルです。

田熊の東7 キロほどの所が宗像と遠賀郡の郡境の城山峠ですが、国道三号線やJR九州鹿児島本線などがここを通っていて、宗像と遠賀を結ぶ古代からの要路です。ここが不弥国への百里の終点であり、遠賀郡が不弥国なのです。また東南9キロほどの所が宗像と鞍手郡の郡境の猿田峠ですが、ここが奴国への百里の終点であり鞍手郡が奴国です。

付近で宗像・遠賀・鞍手の三郡の郡境が交わっていますが、これは面土国、不弥国、奴国の国境が交わっているということで、倭人伝の国が律令制の郡になり、その国境が律令制の郡境になったことが考えられる好例です。従来から倭人伝中の国については律令制の郡程度の広さであろうと言われていましたが、それを証明することが出来ませんでした。以後、各国を比定していくうちにこのことがはっきりしてきます。

東南陸行五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚。千余戸有り。世王有るも皆女王国に統属す。郡使の往来して常に駐(とど)まる所

帯方郡使の張政は、郡使の往来して常に駐まる所である伊都国に注目していますが、土穴の東南で五百里(32、5キロ)の地点の郡境といえば、嘉麻郡(現嘉穂郡)と田川郡の郡境になります。

国道201号線の烏尾峠の 北1キロほどのところに旧烏尾峠があり、峠への進入路は筑豊緑地公園の一部として整備されています。写真中央の橋の下が峠への上り口になっています。峠の守護神として龍天神社が祭られており、烏尾峠が五〇〇里の終点であり、そのコースは次ぎのようになると思われます。

1、土穴から釣川に沿って東南に進み、鞍手郡との郡境の猿田峠までが百里である。猿田峠が面土国と奴国の国境で、これが倭人伝に見える奴国への百里でもある。
2、鞍手郡内は西川に沿って南に進み六ヶ岳の西側を通るが、六ヶ岳のあたりが二百里である。

3、ここから宮田町内を進み犬鳴川を渡るが犬鳴川のあたりが伊都国への五百里のコースの半分である。
4、遠賀川を渡った後には鹿毛馬川沿いに進まないと、迂回して飯塚から烏尾峠に至ることになり、これでは五〇〇里を越える。遠賀川の渡河地点は小竹だと思われる。 

5、遠賀川を渡ると鹿毛馬川沿いに進み、朝鮮式山城としてよく知られている鹿毛馬神護石のそばを通る。ここまで四五〇里に少し足りないくらいである。現在の地理感覚でいえば、なぜここに朝鮮式山城が必要だったのかと思えるが、この地は玄界灘と周防灘・豊後灘を結ぶ、内陸部の要所だったようである。


6、五百里の終点が烏尾峠だが、この峠は古代から筑前と豊前を結ぶ横断道の要所であった。律令制官道の田河路もここを通っており、庄内町綱分が律令制官道の綱分駅の名残りであり、香春町香春が鹿春駅の名残りなら地理的に見ても烏尾峠を越えることになる。貝原益軒の『筑前国続風土記』にも「大道」と呼ばれていたことが見えており、現在の国道二〇一号線烏尾峠も県下有数の交通量になっている。

烏尾峠から急坂を下って行くと糸田(いとだ)ですが、遠賀川流域は福岡平野とは三郡山地で隔てられているとはいえ、なぜか青銅祭器の出土があまり多くありません。豊前の沿岸部よりも分布密度は低いといえそうですが、そうした中で面積八平方キロの糸田町に青銅祭器の出土が集中しています。

糸田町内銅矛10本、糸田町出ヶ浦銅戈6本、糸田町大宮銅戈9本、他に糒(ほしい)の銅剣3本などです。英彦山川流域の青銅祭器がすべて糸田に集まっているように思えますが、後に述べるように青銅祭器の出土地の近くには弥生終末期の政治的な実力者がいます。糸田が伊都国王の居た場所と考えてよいようです。

糸田がそうであるように、糸田の周辺には伊都に類似する地名が集中しています。糸田の南は位登ですが、これは「いと」ではなく「いとう」と読むのだそうです。位登は『倭名類従抄』などにみえる田河郡位登郷の残存地名で田川市のあたりだと言われていますが、伊都に類似する郷名が存在することに注意する必要があるでしょう。

また伊田(いた)、伊方(いかた)、糸飛(いととび)、伊加利(いかり)、猪国(いのくに)、位猪金(いいかね)、池尻(いけしり)など「い」の音を含む地名が集中していることも注目されます。これらの地名も糸田のあたりが伊都国の中心地であったことを表していると考えることができます。

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