2009年7月31日金曜日

部族と青銅祭器 その7

青銅祭器は廃棄または隠匿されたような状態で出土しますが、その呼称が示しているように祭器であることで一致しています。その青銅祭器を使用した祭祀がどのようなものであったかについては確かな説がありません。

銅鐸については三品彰英氏の地霊・穀霊の依り代と見る「地的宗儀」が有力です。銅剣・銅矛などの武器形祭器については小林行雄氏の海洋祭祀に用いられたとする説が知られています。銅矛は外洋の祭祀 に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたというものです。

私には青銅祭器を用いて宗廟祭祀を行ったという説がないのが不思議です古墳時代の氏族が始祖を神として祭る宗廟祭祀を行なっていたことは明らかで、その祭祀の場が神社です。中国でも周時代以来、宗廟祭祀が極めて重視されています。弥生時代の宗族が族祖を神として祭る祭祀を行ったことは考えられてよいでしょう。

大場磐雄氏は神道の成立する時期を弥生時代としていますが、倭人伝は宗族が存在していることを記しています。弥生時代の宗族にしても、古墳時代の氏族にしても始祖が存在していることを前提とする集団ですから、始祖を神として祭る宗廟祭祀を行なっていたことは明らかです

このことが無視されているのか不思議です。あるいは日本では宗廟祭祀と言えば「神」ということになるので、あえて避けられているのかもしれません。ことに終戦後には神話に対する反発が見られました。私も神話を話題にして「神話には厳密な資料批判が必要である」と言われた経験があります。

「考古学は物をもって語らしめよ」というのでしょうが、物には口がありません。島根県出雲大社の摂社、命主神社の背後から中細形銅戈が出土したことはよく知られていますが、これは何を意味するのでしょうか。その他にも神社の境内から出土したものや、神社の所蔵するものが意外に多くあります。

注意しなければならないことは神社が所蔵するようになった由来が不明のものの中に、埋納されることなく伝世されたものがあるのではないか、ということです。青銅祭器は地中にあったものが発見される例が多いのですが、神社が所蔵するものの出土地は所蔵している神社の所在地だと言えなくもありません。

森浩一氏によると徳島県西祖谷山村鉾神社では銅鐸が神体に準ずるものと見なされ、祭礼のさいにはその存在が確認されるということです。高知県窪川町高岡神社には銅矛五本があって祭礼に用いられおり、一本が一つの集落を表すとされているといいます。対馬でも同様の例が知られています。

私にはこれらの実例に青銅祭器の原点を見る思いがするのですが、ことに高岡神社の場合には弥生時代に宗族は集落を形成しており、その宗族がそれぞれ一本ずつを神体とする宗廟祭祀を行っていたことを思わせます。神道や神社の発生を感じさせます。 

人間と他の動物の違いの一つに、死後の世界を想像することができる点があげられることがありますが、そこから宗教が生れます 仏教が伝来する以前のことですから、その宗廟祭祀は自分の死とも結びついた切実なものであったと思います。

山陰地方では9本柱の「大社造り」を思わせる大型建物がみられ、大社造りの神殿の存在が考えられています。神社の原形は弥生時代の高床式倉庫だと聞いたような記憶があります。祠(ほこら)の語源は穂倉(ほくら)だというのですがそれでよいように思います。穂倉の内部に棚が設けられ神体として青銅祭器が安置されていたのでしょう。

佐賀県吉野ヶ里遺跡でも北内郭と呼ばれている集落中心部の、大型建物の床下から銅戈が出土しており、地鎮祭が行われたのではないかと言われていますが、大型建物は集会場であるとともに神の社でもあり、青銅祭器を神体として安置し宗族の祖先祭祀が行われていたことが考えられます。  

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