2009年8月8日土曜日

「自女王国以北」の国々 その1

私が宗像郡が面土国であることに気づいたのは、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになりました。探偵神津恭介が邪馬台国の位置を推理するという推理小説ですが、この小説では末盧国を宗像郡に、また邪馬台国を宇佐に比定しています。宇佐神宮の鎮座する亀山が卑弥呼の墓だというものです。

小説の前半では通説が紹介されていますが、これには矛盾があって高木氏はこれに着目しています。末盧国は佐賀県東松浦半島のあたり、伊都国は福岡県糸島市のあたり、奴国は福岡平野です。不弥国は説が分かれ福岡県宇美とする説や津屋崎とする説、あるいは宗像とする説があります。

小説では神津恭介が唐津から糸島への陸行に不審を抱いたことになっています。唐津湾に張り付いたような唐津と前原の間の陸路を陸行する必要があるのかというのです。通説の根拠らしいものといえば福岡平野に近い志賀島から「漢委奴国王」の金印が出土したくらいで、末盧国を東松浦半島あたりと見る必要はなく、宗像が末盧国であってもよいというのです。

一大国(壱岐)から末盧国までの距離は千里ですが、方位が書かれていないので末盧国の位置を特定することはできません。厳密に言えば末盧国が佐賀県東松浦半島のあたりという通説には根拠がないことになり、高木氏の言うように宗像であることもあり得ます。

宗像の歴史を見れば帯方郡使が宗像(神湊)に上陸したことは十分に考えられることです。 通説は矛盾だらけで、方位も距離も倭人伝の記述と合いません。他に考えようがないので通説ということになっているだけで、通説だから正しいというわけではないのです。

私は帯方郡使が宗像(神湊)に上陸したという考えに強い関心を持ち、地図を買ってきて宗像とその周辺に何があるかを調べてみました。このことが印象深くて、京都駅近くの地図専門店で買ったことを今でも覚えています。

地図で調べてみると宗像の東南の田川市の周辺に位登(いとう)、伊田(いた)、糸田(いとだ)、伊方(いかた)、糸飛(いととび)、猪国(いのくに)など伊都によく似た地名が集中しています。田川市のあたりが東南五百里の伊都国であることが考えられました。

とすれば東南百里の奴国は鞍手郡であり、東百里の不弥国は遠賀郡ということになります。いずれも遠賀川流域の郡です。

高木氏は帯方郡から邪馬台国までの9ヶ国を、直線上に並んだように位置しているとする直線行程と考えて邪馬台国を宇佐だとしています。伊都国は北九州市付近、奴国は豊前市付近だというのですが、私は中心地のまわりに放射状に国が位置する放射行程を考えたのです

放射行程では宇佐が邪馬台国になることはありません。結論になってしまいますが、夷伝中でも直線行程になっているのは、韓から末盧国までの「従郡至倭」の行程だけで、他の諸伝にもまったく見られません。

これは倭が海中の島国であるために、その位置を放射行程では説明できないからです。倭国内の国については放射行程で説明できますから、伊都国以後は放射行程になっています。邪馬台国の位置は直線行程では解明できません

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