宗像大社の特殊神事に「みあれ祭」がありますが、この神事は中世に行われていた「御長手神事」を昭和37年に復活したものです。沖ノ島の奥津宮で神璽(榊の串に神竹を添えたもの)をそなえて神事を行った後、これを大島の中津宮に移します。
中津宮でも同じ神事が行なわれ、両宮の神璽はその年に宗像七浦(大島、鐘崎、地嶋、神湊、勝浦、津屋崎、福間)で新造された船の中から選ばれた御座船に乗せられて神湊に上陸します。御座船には浪切大幣が、他の船には紅白二流の旗が立てられます。
10月1日に行われる「みあれ祭」では2隻の御座船、それに七浦の漁船五百数十隻が神送船として紅白の旗、大漁旗を押し立てて、大島から神湊まで海上を航行します。
その壮観さはかつての宗像海人族の姿を思い起こさせます。帯方郡使の張政が面土国(宗像)の津に来た時にも同様の光景が見られたと考えています。
この神璽のことをミナガテ(御長手)と言いますが、ミナガテについて『宗像大菩薩御縁起』は、神功皇后の三韓征伐の時、宗像大神がミナガテを振り下ろすと高良大菩薩(こうらだいぼさつ)が乾珠を海に入れて潮を干し、ミナガテを振り上げると滿珠を入れて潮を満たしたと記しています。
こうして戦いに勝った後、ミナガテを沖ノ島に立てておいたところ、それは成長し続けたといい、またミナガテに付けていた旗は鐘崎の織幡神社の祭神になったということです。また竹内宿禰(たけしうちのすくね)が作った紅白二流の旗をミナガテに取り付けたとも言われています。
これらのことからミナガテは旗竿であることが分かります。 この旗は異国を征伐するための軍旗だったように思われます。御長手神事は二流の旗、または旗竿が宗像に上陸してくるのを、宗像七浦の海人が出迎えたという、歴史上の事実が伝えられているようです。
宗像に二流の旗、または旗竿がもたらされたことは歴史上の事実で、沖ノ島5号遺跡から六世紀の東魏時代の金銅製龍頭(りゅうとう)一対が出土しています。東魏時代という年代については見直しが必要ということですが、龍頭は旗竿の先端につける飾り金具です。
卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と不和の関係にあり、このことを魏に訴えましたが、それに対し魏は、正始六年に難升米に黄幢を授与しています。黄幢は軍事指揮権を付与されたことを表すもので、ミナガテと同じ性格を持っていると考えられます。
正始八年、帯方郡使の張政が難升米に黄幢を届けるために宗像に上陸しましたが、倭人伝の記事の多くはこの時の張政の見聞です。「御手長神事」の起源の一つに難升米に授与された黄幢が宗像に届いたことがあると言えるようです。
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