2009年8月20日木曜日

「自女王国以北」の国々その9

宗像郡の釣川流域は大きく湾入しており、宗像市役所のある田熊付近まで入海であったと考えられています。しかし弥生時代の海水面は現在と変わらないと言われていますから、玄界灘を渡って中国、朝鮮半島に行ける大型船が田熊まで行けるとは思えません。

宗像市多礼の釣川河床遺跡で銅矛が出土しています。その出土状況が分からないので断言はできませんが、大型船は宗像大社辺津宮あたりまでは入って来れたが、田熊までは行けなかったように思われます。多礼は宗像大社と田熊の中間になります。

帯方郡使の張政は辺津宮付近に上陸し、刺史の如き者(面土国王)の捜露を受けた後、徒歩かあるいは川舟かで田熊付近まで行ったようですなぜそのように言えるかということですが、倭人伝に見える国々の方位・距離は田熊付近が起点になっているようなのです。

元禄16年(1703)、貝原益軒が『筑前国続風土記拾遺』を書かきましたが、筑前国(福岡県)の風土の聞き書きという題名になっています。その中に宗像郡土穴村(宗像市土穴)の生目八幡宮の記事があります。

此邊(このへん)昔は江口(玄界町江口)の邊より、江海來(こうかいきた)りて、船など着しとて、宮(生目八幡)の南の田の中に大碇(おおいかり)、小碇(こいかり)などいふ處有(ところあり)。此社(このやしろ)をいにしへ御船上社と云ひ。また向かひの田久村(宗像市田久)の境内に、御船漕社あり。是海邊(これうみべ)なりし故也(ゆえなり)。是より江口迄、今は二里計の陸地なりといへども、其地勢を見れば、左も有ぬべく思はる。田圃の字にも、海邊の名多く残れり。

昭和50年代に宗像を歩き廻っていたころ、生目八幡宮の鳥居の前の民家の庭に、大碇・小碇だという岩があるのを見た記憶があります。今は無いようですがどうなったでしょうか。鳥居の前に船が着いたのかどうか気にしています。

益軒の書に見える江口は釣川河口の集落で、宗像大社五月宮(さつきぐう)がありましたが、土穴から江口まで二里(8キロ)ばかりの陸地で、昔は海で生目八幡宮の南に船が着いたというのです。土穴の生目八幡宮は御船上社だといわれ、田久の若八幡宮の境内には船宮神社があり、これが御船漕社だと思われます。

その土穴の西、3キロほどに田熊石畑遺跡があって、昨年夏、細形の武器形青銅器15本が出土しました。宗像に着目したのは髙木彬光氏の『邪馬台国の秘密』が評判になっていたころでしたが、15本の青銅器が出土するとは思ってもいませんでした。まさに「青天の霹靂」です。

田熊石畑遺跡からは船着場の遺構ではないかと言われる環壕が見つかっています。付近を流れている川と環壕の外側の谷のような部分とは繋がっており、谷部が船着場になっていて、環濠内部が倉庫になっていたのではないかと考えられています。 海洋民の宗像族を思わせる遺構です。

青銅器の時期は中期前半だと考えられていますが、私は中期前半を紀元前一世紀だと考えています。近くでは以前に四本が出土しており合計19本になりましたが、これは福岡市の吉武高木遺蹟の11本を凌いで最多です。これらの青銅器が製作された時期には倭人の百余国が遣使しているのですが、その内の一国が宗像であることが考えられます

私は今まで、宗像神社の「根本神領」とされて宗像大宮司が住んでいたことなどから、釣川流域の中心は土穴付近だと考えてきました。しかし田熊石畑遺跡の発見で状況が変わってきました。付近には釣川流域最大の東郷高塚古墳もあり、釣川流域の中心は土穴よりも田熊と考えるのがよいようです。

先に不弥国=遠賀郡、奴国=鞍手郡、伊都国=田川郡という比定ができることを述べ、またその国境は律令制の国郡境の可能性のあることを述べました。倭人伝の百里は6、5キロですが田熊・土穴を起点にすると、奴国、不弥国の国境が宗像郡と鞍手、遠賀両郡の郡境になります。遠賀郡との郡境は城山峠であり、鞍手郡との郡境は猿田峠です

辺津宮を基点にすると遠賀郡境の垂見峠までが百里だと考えることもできそうですが、鞍手郡境の猿田峠までが百里(6、5キロ)だとは言えません。田熊・土穴付近を起点にすると遠賀郡境の城山峠、及び猿田峠までは7~9キロになって、百里と言ってよい距離になります。

田熊・土穴付近には外国使節を饗応するための館が有ったように考えられます。帯方郡使の張政は伊都国に陸行するまでの間、この館に逗留したのでしょう。この田熊・土穴付近での逗留中の見聞が倭人伝の地理記事、風俗記事になっているようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿