2009年8月14日金曜日

「自女王国以北」の国々 その8

中世宗像の特殊神事に「五月会行幸神事」がありましたが、これも5月5日の「五月まつり」として再興されたことがありますが、神事が煩雑になることから現在では行なわれていないということです。この神事は宗像大社の「隠れた象徴」とも言える玄海町江口の五月宮の神事です。

『宗像神社史』によると浜殿は元は辺津宮の「馬場の東端」にあったということです。神宝館前の駐車場の北側に万葉歌碑がありますが、そのあたりだそうです。本殿のごく近くであり、釣川に最も近い位置ですから その可能性はあるように思います。

今から4700年ほど前には、釣川流域は東郷のあたりまで湾入していたが、海退と釣川の沖積により陸化したと言われています。そのため水面から離れることのできない浜殿は2キロ下流の現在地に移されたようで、このことから浜殿は船が神祠になったものだと考えることができます。

『宗像神社史』によると現在地に移る前の元来の浜殿は宇佐市和間浜にある宇佐神宮の浮殿と同様の、水面上に浮かぶ高床式の神祠だったということです。宇佐神宮の浮殿は放生会神事に先立って、田川郡香春で鋳造された神鏡が収められましたが、浮殿も神鏡を運ぶための船が神祠になったと考えられます。 

五月会行幸神事は浜殿にしつらえた五基の神輿に架け渡された緋色の綱を持つことによって、宗像周辺の一〇の神社の神人と神輿(みこし)の霊とが結縁を結ぶというもので、神輿が浜殿に着くと神輿から「御上座」という胡床(腰掛け)が出され、その前で祝詞が奏上されたといいます。

胡床の前で祝詞が奏上されるのは、胡床に着座した貴人が想定されているのでしょう。祝詞には着座している貴人を歓送することが述べられていたはずです。 その後、やはり胡床を主体にした「饗膳事」という饗宴が行われますが、これも胡床に座った貴人が想定されているのでしょう。

輿に乗った貴人が船に乗るために港に着くと、宗像近在の主だった人々が集まって来てセレモニーが行われたのでしょう。そのセレモニーが五月会行幸神事になったと考えることができます。 神事になるくらいですから、それは幾度も行われたのでしょう。

前回に述べた「御長神事」は中国、朝鮮半島からの使者が宗像に着いた時、あるいは派遣されていた倭人の使者が帰国した時の海上の光景でしょうが、五月会行幸神事は中国、朝鮮半島からの使者が帰国する時、あるいは倭人の使者が出発する時の陸上の光景のように思えます。宗像神社の特殊神事は宗像の性格をよく表しているようです。

沖津宮のある沖ノ島で海洋祭祀が始まるのは4世紀だとされていますが、二世紀から三世紀にかけての宗像も中国・朝鮮半島との交流の拠点になっていたことが考えられます。宗像市の田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土したことは、それがさらに紀元前1世紀にまで遡るということでしょう。

浜殿は元は辺津宮のそばの釣川の川岸に有ったと言われていますが、私は張政の乗った船は辺津宮付近まで入って来たと思っています。 髙木彬光氏は帯方郡使は神湊に上陸したとしていますが、当時の釣川流域は大きく湾入していたことが考えられています。

辺津宮本殿の背面(南側)に観音開きの扉が取り付けられていますが、その扉の先には高宮祭場があります。出土品などから辺津宮が創建される以前には高宮祭場で海洋祭祀が行なわれていたことが考えられていますが、この扉は高宮祭場に降臨した神が本殿に入る為の入り口のようです。

倭人伝は津で捜露が行われたと記していますが、その津は高宮祭場の麓、つまり辺津宮の馬場の東端にあった、元の浜殿の位置であろうと思います。そこでは捜露が行われると共に、五月会行幸神事に見られるような送迎のセレモニーも行なわれたでしょう。

古墳時代にあっても この地は使節の供応の場であったと考えます。供応の場は後に博多湾に移るようですが、その跡地に辺津宮が創建される考えています。神社の始源が三世紀中葉にまで遡ることを実証できる例は他にはないように思います。

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