伊都国は一大率が居たり、帯方郡使が逗留したり、あるいは王が居るが女王国に統属しているなど、女王国内でも特殊な国だったようです。筑前と豊前との国境の山塊は、周防灘沿岸の平野部と北部九州内陸部を結ぶ東西交通を分断しています。糸田・香春はその筑豊国境の山塊の鞍部ともいうべき位置にあり、これが伊都国の重視される原因になっているようです。
周防灘、長門方面から筑豊国境の山塊を越えて筑前に入るには洞海湾沿いの鞍手道(大宰府道)、田川鞍部を通過する田河道、筑後川沿いの豊後道の三ルートがありますが、この三ルートを支配することは、九州東北部を支配するということであると同時に、周防灘や長門方面との交流を確保できるということであり、その先には吉備や大和があります。
737年、藤原広嗣が反乱を起こし筑紫、豊、肥の兵一万を指揮し、一万七千の朝廷軍と北九州市小倉区の板櫃河(紫川とも言われる)で対戦しますが、朝廷軍が長門から関門海峡を渡って筑紫に入るルートは三つしかありません。
筑後川沿いの豊後道は筑紫に入るには大きく迂回することになる上に、日田のあたりに防御線を張られれば侵入は不可能で、その地勢は広嗣側に有利です。洞海湾沿いの鞍手道(大宰府道)か、田川鞍部を通過する田河道かのどちらかになります。
広嗣側の最初の計画では太宰府から兵を発し、北回りの鞍手道から広嗣の指揮する兵五千、南回りの豊後道から弟の綱手の兵五千、中央の田河道から多胡古麻呂(たこのこまろ)が指揮する数不祥の兵が板櫃鎮付近に結集することになっていました。
ところが広嗣の予想よりも早く朝廷軍が豊前を占拠したため、綱手の兵五千は進路を阻まれます。そこで綱手軍は遠賀川沿いに北に向い、遠賀郡家の広嗣の兵と合流し、総数一万で朝廷軍と板櫃河で対峙します。
板櫃河での広嗣の兵力は一万で、それには多胡古麻呂が指揮する数不祥の兵が含まれていません。多胡古麻呂の兵を板櫃河に結集させると田河道の守備が手薄になり、田河道から進攻してきた朝廷軍に背後を突かれるからです。
多胡古麻呂の兵が守備していたのは、その地勢から見ていま問題にしている糸田、香春のあたりだったでしょう。この地を確保することは田河道を確保するということですが、それは遠賀川流域を確保するということでもあり、筑前を確保するということにもつながります。
広嗣が板櫃河を決戦の場とした理由、あるいは多胡古麻呂の兵が板櫃河に結集しなかった理由を考えると、三世紀の伊都国(田河郡)の特殊性がよく見えてきます。広嗣が本営を置いた遠賀郡家は倭人伝の不弥国であり、その西隣が面土国(宗像郡)です。また後に述べますが遠賀川の中・上流部は奴国であり、また豊後道に沿って邪馬台国がありました。
通説では全く考えられていないことですが、面土国王は「自女王国以北」の国である不弥国や奴国を、女王に対して半ば独立した状態で支配していました。その状態があたかも中国の州刺史の如くだというのです。伊都国には一大率が居て諸国を検察していましたが、その目的の第一は田河路沿いの交通を確保することだったでしょう。
一大率の役割と広嗣の乱における多胡古麻呂の役割は同じだと考えることができます。そのような意味では朝廷軍と女王の立場が似ており、広嗣と面土国王の立場も似ていると言えます。
違うのは朝廷軍が長門・豊前から、西の筑前に進攻しようとしたのに対し、女王は筑前から豊前・長門への交通路を確保し、その統治権を東に伸張しようとしていたことでしょう。糸島郡を伊都国とする通説では考えることのできないことです。
0 件のコメント:
コメントを投稿