2009年8月3日月曜日

「従郡至倭」の行程 その1

長々と前置きを続けてきましたが、いよいよ邪馬台国の位置論を始めます。前置きが長くなったのは私の考えの概要を説明したかったからですが、位置論についてそれを纏めると次のようになります。

① 倭人の王の支配地は「稍」に制限されていた。稍には6〇〇里四方(260キ  ロ四方)という意味と  王城を去ること300里(130キロ)という、二つの意  味がある。
② 韓伝・倭人伝の千里は300里ではなく、半分の150里(65キロ)である。
③ その方位・距離の起点は王城だが終点は国境である。けっして相手国(隣   
国)の国都ではない

図は韓と帯方・楽浪郡、及び対馬との位置関係を示していますが、円の直径は四千里(260キロ)です。韓・倭人伝以外の諸伝では同じ円が二千里になっています。従って韓の南北の距離の四千里と東西の距離の四千里の合計は八千里になります。

まず帯方郡から倭国までの「万二千里」について考えてみたいと思います。万二千里は780キロになりますが、この距離は帯方郡冶の在ったソウル(京城)の外港のインチョン(仁川)から、佐賀県東松浦半島(末盧国)の海岸までの距離です。

通説では帯方郡から伊都国までの距離を万500里とし、残りの1500里が伊都国と邪馬台国の間の距離だとされていますが、方位・距離の終点は国境であって国都ではありません。従がって「万二千里」の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。末盧国の海岸が倭国の国境と見られているのです。

帯方郡から狗邪韓国までの七千余里も、通説ではプサン(釜山)までの距離だと考えられていますが、狗邪韓国は慶尚南道であり、その西境までの距離でなければいけません。ナムヘ島(南海島)の西海岸のあたりが七千余里の終点のようです。

狗邪韓国から対馬国(対馬)への渡海地点が問題になりますが、通説のようにプサン(釜山)だと780キロを超えてしまいます。ナムヘ島(南海島)の西海岸が渡海地点になっていると考えなければいけないようです。渡海地点については東北方向に流れる 朝鮮海峡の潮流を考えて見る必要もあります。

韓の七千余里に狗邪韓国から末盧国までの3千里を加えると1万里になりますが、通説では残りの2千里は末盧国と邪馬台国の間の距離だとされています。しかしこの2千里はインチョン(仁川)から韓の国境までの距離であって、邪馬台国までの距離ではありません。このことから帯方郡と韓の国境は京畿道と忠清南道の道境であることが分かります。

私たちは定住地を中心にした地理観を持っていますが、倭人伝の地理記事は遊牧民の境界を中心にした地理観で解釈する必要があります。

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