2009年8月6日木曜日

「従郡至倭」の行程 その4

高橋善太郎氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には必ず何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。「又」「次」「乃」などの、行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用して行程が連続していることを表すと述べています。

高橋氏の指摘するように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表していますし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴(へ)て」「海岸に環(そ)い」「乍(たちまち)南し、乍(たちまち)東し」の文が見られます。

対海国の文には「始めて一海を度(わた)る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも「又一海を渡る」とあります。ところが伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。そこで高橋氏は次ぎのように述べています。
 
正史の直線行程の記載法から言えば、末盧までが直線行程の中に数えられるだけで、 伊都以後が末盧からの四至になるとさえも考えられる。

四至(しし)とは放射行程のことで稍の考えに基づく記述方法ですが、高橋氏は伊都国以後は末盧国を中心とする放射行程だとさえも考えられるとしています。高橋氏の述べるように榎氏の伊都国を中心とする放射行程説は根拠が薄弱で、高橋氏の考えは適切です。

ここで注意しなければならないのは、高橋氏は末盧国が放射の中心だと断定しているわけではないことです。稍の考え方では郡治所、王城(国都)など、政治的、軍事的、経済的な中心地が放射の中心になりますが、倭人伝の記述する末盧国は放射の中心になるような場所とは考えられません。
                    そのような意味では伊都国のほうが中心らしいと言えます。高橋氏が末盧国を放射の中心だと断定していないのはこのためでしょう。伊都国も末盧国も放射の中心(稍に対する王城)ではありません。
                    伊都国と末盧国の間に倭人伝に国名さえも記されていない地点があり、その地点が放射の中心になっていると考えないといけないのです。これは「従郡至倭」の行程が末盧国で終わっているということでもあるのですが、下図は私の考えている放射行程です
                                        
「自女王国以北」の国と「従郡至倭」の行程中の国を区別しています。この倭人伝に見えない地点が面土国なのです。倭人伝の記事からは稍という考え方があるようには思えませんが、それは大海中の島国という倭国の特殊性によるものであって、放射行程こそ稍の考えに基づく記述方法なのです。

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