今回は仮定を述べてみたいと思います。私は最初の斯馬国は筑前にあり、一六番目の邪馬国から最後の奴国までの六ヶ国は豊後にあったと考えています。二番目の巳百支国から一五番目の鬼奴国までの14ヶ国はさっぱり分かりませんが、田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。
そこで豊前が8郡であることから2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までの7国は豊前に有ったと仮定してみましょう。豊前の8郡の内には伊都国の田川郡が含まれます。そうすると残りの対蘇国から鬼奴国までの7国は肥前に有ったと仮定することができそうです。当たらずとも遠からずで、妥当な線であろうと思います。
そうすると肥前の14郡のうちの松浦郡が末盧国であることが考えられますから、残りの13郡が対蘇国から鬼奴国までの7ヶ国ということになりそうです。郡数が13であるのに対して国の数が7というのは何となくアンバランスです。その原因として、肥前には吉野ヶ里遺跡がありますから、吉野ヶ里の王がその差の6郡を支配していたのだと言えなくもなさそうですが、私はそのようには考えません。
そこで考えたのは肥前の西半分くらいは狗奴国に属していたのではないかということです。 『不属女王国 その3』 で、九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があること、および「渡来系弥生人」の国が女王国であり、「第二のタイプの弥生人」の国が狗奴国であることを述べました。第二のタイプの弥生人とは西北九州の弥生人で、長崎県、熊本県、及び佐賀県の砂丘につくられた土坑や石棺からその骨が出土しています。
佐賀県の真ん中あたりで「渡来系」と第二のタイプの「縄文系」が接触しているのですが、このことを端的に表しているのが青銅祭器です。「渡来系」の居住する地域には青銅祭器が見られるのに、第二のタイプの「縄文系」が居住するする肥前の西半分には青銅祭器が見られないのです。
『部族と青銅祭器』で縷々述べてきたことですが、部族は通婚によって結びついた宗族の集合体です。部族は同族関係にある証しとして宗族に青銅祭器を配布しましたが、部族はその同族関係を背景にして稍を支配する王を擁立しました。
北部九州の銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族が擁立したのが面土国王の帥升であり卑弥呼です。 青銅祭器を配布したのは渡来系弥生人の部族であり、渡来系との通婚関係のない縄文系弥生人は青銅祭器の配布を受けることはありませんでした。
青銅祭器が見られないということは、王を擁立することがなかったということであり、それは面土国王や卑弥呼の支配を受けることがなかったということでもあります。つまり女王の支配を受けていない(女王国に属していない)縄文系弥生人が肥前の西半分にいたことが考えられるのです。
その肥前西半の縄文系弥生人は女王国ではなく狗奴国に属していたのではないかと考えます。その狗奴国は後に肥前と肥後に分かれます。これはまだ仮定の段階ですが、いずれにしても女王国が筑前・筑後・豊前・豊後・肥前の範囲内であることは確かです。国名のみが列記された21ヶ国がこの範囲を出ることはないでしょう。
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