2009年8月24日月曜日

伊都国 その5

『日本書紀』垂仁天皇紀二年是歳条に都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が穴門(あなと、長門、山口県)に来た時、その国に伊都都比古が居り、「吾は是の国の王(きみ)なり。吾を除きて複(ま)た二王(ふたりのきみ)無し」と言ったことが記されています。

香春神社第三殿を祭る鶴賀氏は都怒我阿羅斯等を祖とする伝承を持っており、香春町採銅所にはそれを思わせる現人神社がありますが、あるいは鶴賀氏などの祖の渡来譚なのかも知れません。長門に王と称する伊都都比古が居たことに注意したいものです。

伊都都比古が伊都国王だと断言できるわけではありませんが、田川郡が伊都国ならその可能性もあり、伊都国王が関門海峡を支配していたことは考えられてもよいことです。しかし糸島郡が伊都国ならその可能性はありません。

私達は弥生文化と言えば玄界灘沿岸が中心になっていると思いがちで、その出土品などを見るとその考え方には説得力があります。ですが弥生文化は玄界灘沿岸だけのものではないはずです。

玄界灘沿岸が中国や朝鮮半島の影響を強く受けていることは事実ですが、それは北部九州が中国・四国地方、あるいはそれ以東の地域の影響を受けなかったというのではなく、中国や朝鮮半島以上に強い影響を受けたはずです。

倭人伝を見ると伊都国は特殊な国のようですが、伊都国は田川郡であって糸島郡ではありません。広嗣の乱が示しているように東の倭人との関係に目を向ける必要があります。田川郡の地理的な特殊性は、女王国内における伊都国の特殊性ということでもあります。

北九州主要部の人々の関心が朝鮮半島ばかりではではなく、中国・四国地方にも向けられていたということで、それは遠く出雲や吉備・畿内、わけても大和及んでいたはずです。具体的に見ると北部九州で造られた銅矛・銅戈が中国・四国地方で出土していますが、その搬出ルートは先の鞍手道、豊後道、田河道のいずれかでしょう。

四国の西南部には広形銅矛が多く見られますが、その搬出ルートは豊後道→豊後水道を経由するものであることは明かですが、瀬戸内海沿岸東部に見られるものについては田河道を経由して運ばれたことも考えなければならないでしょう。

島根県荒神谷遺跡の一六本の銅矛は、研ぎ分けが施されていることから肥前で造られたことが考えられていますが、その搬出ルートについては日本海沿いの海路で運ばれたことも一応は考えられますが、備後、石見の江の川流域の土器が山陰系であることから見て、田河路→瀬戸内海→安芸→備後・岩見の江の川流域→出雲という陸路を考えるのがよいと思っています。

中国の三国時代の銅鏡についても同様のことが考えられますが、この場合には丹波、丹後など畿内北部の日本海沿岸に陸揚げされて畿内の有力者によって配布され、それが北部九州に及んだようには思えません。やはり北部九州が介在しており、主として田河路→瀬戸内海を経由して配布されたと考えるのがよいでしょう。
 
いずれにしても伊都国の特殊性のすべてが、中国や朝鮮半島に由来するという考え方は、それが通説であるとはいえ行き過ぎているように思われます。北部九州には中国や朝鮮半島に由来する文化があり、出雲や畿内には別の文化が有った思えばよいのでしょう

それが統一されたときに大和朝廷が成立するようですが、そこに至るには中国の冊封体制が絡んでいるようです。

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