高木彬光氏は末盧国を宗像としていますが、私には宗像を末盧国とする積極的な根拠が見当たりませんでした。一大国(壱岐)からの距離は千里ですが方位が書かれていないので宗像を末盧国と断定することはできません。安本美典氏が宗像の可能性があることを示唆されていることは知っていましたが、なんとなく納得できませんでした。
また高木氏は帯方郡使は神湊(こうのみなと)に上陸したとしますが、倭人伝にみえる末盧国は平地がないというイメージですが、釣川河口の神湊の光景とは一致しません。また私には末盧国は唐津平野よりも東松浦半島の呼子あたりの光景のように思えました。
今でも面土国の名前を知っている人は多くありませんが、そのころ面土国に触れているのは井上光貞氏の『日本の歴史』の「神話から歴史へ」くらいのものでした。私が面土国の存在を知ったのが『神話から歴史へ』です。そして面土とはミナト(港・湊・水門)のことではないかと思うようになりました。
そこで列車で乗り合わせた中国人に北京官話音で面土を発音して貰ったところ、確かに「ミナト」と聞こえます。宗像の歴史はまさに「港の国」そのものです。宗像は末盧国ではなく面土国だと考えることが可能になってきました。
それと共に「従郡至倭」の行程の国と「自女王国以北」の国とが連続したものでないことが分かり、その接点に面土国が位置することも分かってきました。このことに気づいた時は、もやもやが一気に吹っ飛んだ思いでしたが、これが私の邪馬台国にのめり込んだ原点です。
確かに倭人伝の文脈上では「従郡至倭」の行程と「自女王国以北」の国とは連続していると思わざるを得ません。しかし「行間を読む」と言うのか、あるいは「言外にものを言う」とでも言うのか、そうゆう表現方法がありますが、「従郡至倭」と「自女王国以北」の関係はそうした表現方法になっています。
これは倭人伝の文脈上では、面土国は「従郡至倭」にも「自女王国以北」にも属していないので、面土国の名前を書く場所がないということです。このことが考えられていないので、放射行程説と直線行程説が対立しています。
陳寿が倭人伝を撰述するについては、帯方郡に提出した帯方郡使の張政の報告書が参考になっていると思われますが、張政の報告書の不備か、または陳寿の誤解釈が原因になっていると思われます。
このことは「自女王国以北」の国と、投馬国や邪馬台国の関係についても言えることで、注意が必要です。ここでも 「行間を読む」 必要があります。先に「邪馬台国と面土国 その7」で投馬国の「水行二十日」は呉まで、また邪馬台国の「水行十日・陸行一月」は洛陽までの所要日数であることを述べましたが、これらの日数は「自女王国以北」の国の位置とは全く無関係です。
つまり投馬国は「自女王国以北」の国には含まれないのです。私は投馬国は「自女王国以南」の国だと思っていますが、邪馬台国の位置と「自女王国以北」、及び「万二千余里」・「水行十日・陸行一月」は直接には関係がありません。これらは邪馬台国の位置を推定する根拠にはなりません。
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