2009年8月30日日曜日

国名のみの21ヶ国 その1

今までの検証から狗奴国は肥後であり、侏儒国は薩摩であることが推察されます。東の海を渡った倭種の国や裸国・黒歯国は中国・四国地方西部です。そして「自女王国以北」の諸国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の東側です。とすれば方位が南とされている邪馬台国と投馬国は筑前西半か筑後ということになります。

結論になりますが、筑前の西半に邪馬台国、東半に「自女王国以北」の国が在り、筑後が投馬国になるようです。そして国名のみの21ヶ国が、豊前・豊後・肥前にそれぞれ7ヶ国くらいづつあったようです。

倭人伝の記事は田熊・土穴での見聞であり、諸国の位置も穴に近い国から遠い国の順になっているようですが、国名のみの二一ヶ国も田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。

最初の国は斯馬国ですが、最後の奴国は「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます

次に斯馬国が有り、次に巳百支国が有り、次に伊邪国が有り、次に都支国が有り、次に彌奴国が有り、次に好古都国が有り、次に不呼国が有り、次に沮奴国が有り、次に対蘇国が有り、次に蘇奴国が有り、次に呼邑国が有り、次に華奴蘇奴国が有り、次に鬼国が有り、次に為吾国が有り、次に鬼奴国が有り、次に邪馬国が有り、次に躬臣国が有り、次に巴利国が有り、次に支惟国が有り、次に烏奴国が有り、次に奴国が有り、此れ女王の境界の尽きる所なり

21ヶ国の最初の斯馬国は「島の国」という意味の国名だと考えることができますが、何度も触れてきたように田熊・土穴の近くで国を形成できる島といえば律令制の志摩郡以外には考えられません。斯馬国は志摩郡でしょう。

志摩郡は今では半島になっていますが弥生時代には島だったと言われていて、後に怡土郡と併合されて糸島郡になりました。通説では糸島郡は伊都国とされていますが、地名が似ていること以外には根拠はないと言ってよいでしょう。

二番目の巳百支国から一五番目の鬼奴国まではさっぱり分かりませんが、田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。それも道路に沿って並んだ状態で記されているようで、帯方郡使の張政は倭人がそのように説明したのを書き取ったのでしょう。

『倭名類従抄』によると筑前は15郡、筑後は9郡、豊前は8郡、豊後も8郡、肥前は14郡で、合計は54郡になります。女王支配下の30ヶ国よりも郡数が多くなりますが、これには邪馬台国・投馬国・奴国などになっている郡が有るからでしょう

戸数2万の奴国は遠賀川流域の嘉麻・穂波・鞍手の3郡ですが、一郡を平均7千戸すると5万戸の投馬国は7郡程度、7万戸の邪馬台国は10郡程度の広さであったことが考えられます。しかしこの数字はあくまでも推察であって実数というわけではありません。

筑前に邪馬台国や「自女王国以北」の国があり、筑後に投馬国が有ったと考えていますが、この3国は20郡に相当しそうです。そうであれば国名のみが列記された21ヶ国は豊前8郡、豊後8郡、肥前14郡の30郡の範囲内に収まりそうです。国の平均的な面積は後の郡とほぼ同じか、やや広いことになりますが、3世紀の国が律令制の郡になるようです

私は一六番目の邪馬国から最後の奴国までの六ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は八郡ですが、海部郡・国東郡以外の六郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。またその並び順も筑後川に沿って西から東の順になり、続いて大野川に沿って下流から上流の順になっているようで、この並び順は律令制官道が太宰府を中心にして伸長しているのと一致します。

邪馬国(やまこく)、躬臣国(くしんこく)、巴利国(はりこく)の三ヶ国は筑後川水系の国であり、律令制豊後路沿いの国です。支惟国(きいこく)、烏奴国(うぬこく)、奴国(ぬこく)の三ヶ国は大野川水系の国であり豊後・肥後路沿いの国です。

邪馬国は日田郡のようで、日田郡は西の筑後平野から見ても、東の豊後灘方面から見ても山間の郡であり、そこで邪馬国と呼ばれていたことが考えられます。次の躬臣国は日田郡の東の玖珠(くす)郡でしょう。その音がよく似ていて近くには久住山(くじゅうさん)、九重山(くじゅうさん)がありますが、躬臣国の名残りなのでしょう

次の巴利国は速見(はやみ)郡であり、巴利が速見になったことが考えられます。次の支惟国は大分郡でしょう。大分は古くは碩田(おほきた)と呼ばれていましたが、その原型が支惟であることが考えられます。次の烏奴国は大野(おおの)郡だと思われますが、音がよく似ています。

二一ヶ国の最後は奴国ですが、この国については「東南陸行百里」の奴国の重出ではないかという考え方があります。最後の奴国は直入郡ですが、直入郡は豊後、肥後、日向の三国の国境が接する場所です。この奴国は「女王の境界の尽きる所」だと記されていて、豊、肥、日、三国の国境が女王国の国境でもあったことがわかり、遠賀川流域の奴国とは別の国であることがわかります。

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