2009年8月25日火曜日

伊都国 その7

筑前は三郡山地で東西に二分することができますが、その三郡山地の東側とその周辺では地勢を国名にしているようです。宗像郡は港があるので面土国(ミナトノクニ)と呼ばれていました。宗像大社の特殊神事「みあれ祭」の行なわれる大島・地の島・勝島で囲まれた海域宗像海人の根拠地になっており、そこに港がありました。そこから「面土国」という国名が生まれました。

遠賀川下流域の響灘沿岸は「海の国」と呼ばれていました。これが不弥国(フミコク)です。不弥国は田熊・土穴の東百里(6、5キロ)に位置していることになりますが、それは遠賀郡との郡境の城山峠にあたります。宗像郡と遠賀郡の郡境が面土国と不弥国の国境であり、遠賀郡が不弥国です。
 
遠賀川中、上流域の平野部は「野の国(ののくに)」と呼ばれていて、これが奴国です。伊都国までの五百里の内の百里と、奴国の百里は同じもので、宗像郡と鞍手郡の境の猿田峠がその地点です

猿田峠と烏尾峠との間は4〇〇里になりますが、この4〇〇里が奴国であり、それは律令制の鞍手郡と嘉麻郡(鎌郡)になり、これに穂波郡を合わせたものが戸数二万の奴国のようです。

鞍手郡と嘉麻、穂波両郡は遠賀川水系の郡であり、西の福岡平野や朝倉郡とは三郡山地で隔てられています。同じ遠賀川水系であり人々の交流も密接で、現に今では嘉麻郡と穂波郡とで嘉穂郡を形成しています。これは弥生時代にあっても同様で、遠賀川の水利を共有し通婚が行なわれることで、奴国という部族国家が形成されていたことが考えられます。

このように見てくると遠賀川中、上流部が奴国であり、下流部が不弥国であり、英彦山川流域が伊都国ということで「自女王国以北」は遠賀川流域だということになります。とすれば伊都国も地勢を国名にしていそうですが、伊都からは地勢が思い浮かびませんから、地勢とは関係はなさそうです。

田熊・土穴から烏尾峠までの五〇〇里のルート上には物部氏の伝承が多いことに注意する必要がありそうです。物部氏は古代氏族のなかでも他を圧して同族が多く、活躍の跡も著しいのですが、吉田東伍編『大日本地名辭書』は、筑前鞍手郡の項に物部氏関係の記事を載せています。奴国と物部氏とには何らかの関係がありそう、この点についてさらに探求してみたいと思っています。

後に述べますが遠賀川流域から見ると南の豊後日田郡が、国名のみが列記された21ヶ国の内の16番目の邪馬国(ヤマノクニ)のようです。日田郡は遠賀川流域から見ても、西の筑後平野方面から見ても、また東の豊後灘方面から見ても山中の郡です。そこでヤマノクニと呼ばれていたようです。

であれば邪馬台国も山と関係のある国名だと考えることができそうです。私は邪馬台は音ではなく意味からいえば山土・山戸・山登・山途・山止・であろうと思っています。海と陸との境の国が面土国であるのに対し、平野と山地との境の国が邪馬台国だと思うのです。つまり面土国と邪馬台国は常に対比される関係にあったと考えるのがよいと思うのです。
                                               私は邪馬台国は三郡山地の西の裾野、それもヤマノクニである日田郡に近い南の方の裾野にあったと考えています。しかし「水行十日・陸行一月」とありますから、海に面した部分もあると考えなければならないでしょう。このことは「水行二十日」の投馬国についても言えることです。

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