また万二千余里を帯方郡から邪馬台国までの距離とし、伊都国と邪馬台国の間の距離を1500里とする説も誤りです。万二千里は末盧国の海岸までの距離であって、邪馬台国までの距離ではないのです。ということは投馬国・邪馬台国の位置を知る手懸かりはその方位が南ということ以外にはないということです。
従来の説は「水行十日・陸行二十日」や、伊都国と邪馬台国の間の距離を1500里とすることを前提にしています。また唯一の手懸かりの方位の南を東の誤りだとします。これでは邪馬台国の位置など分かるわけはありません。おそらくこの考え方は今後もなくならないでしょう。 しかし思惑が有ってでしょうがこれを完全に無視した説が見られますが、これは論外です
それでは邪馬台国の位置は永遠の謎なのかというとそうでもなさそうです。大坂夏の陣で徳川方は大阪城を攻めあぐね、その外堀を埋めることを条件にして和睦しますが、のらりくらりと内堀まで埋めてしまいます。
そのため冬の陣で大坂城は落城しますが、邪馬台国も外堀を埋め、内堀も埋めないと落城しないようです。そこで邪馬台国の見取り図(?)を作ってみました。
肝心の本丸(邪馬台国)の位置が分からないということになりますが、外堀は女王に属していない諸国で、それには方位や距離の記されているものがありますから、その国の位置が分かれば自ずから邪馬台国の位置も決まってきます。内堀は女王に属しているが方位・距離の記されていない、国名のみが列記されている21ヶ国です。
言ってみれば知将眞田幸村の篭る眞田丸が伊都国(田川郡)ということになるのでしょう。攻城の足がかりになるのが面土国(宗像郡)です。図の方位・距離の起点は宗像郡の田熊・土穴付近です。赤線の間隔が千里で65キロになります。
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