倭人伝の記事は大きく三つに分かれていて、冒頭部分から「郡より女王国に至る万二千余里」までは地理記事です。「男子は大小となく皆鯨面(げいめん)文身(ぶんしん)す」から「常に人有りて兵を持ちて守衛する」までは風俗記事で、衣服、生活、倫理、動植物、鉱物、住居、支配体制など多岐にわたっています。 それ以後は外交記事で、卑弥呼が女王だった前後のことがかなり詳しく記されています。
風俗記事には帯方郡使が自身で見たことと倭人から聞いたことがありますが、明らかに帯方郡使が見たと考えられるものも多くあります。 見た場所については、伊都国が帯方郡使の常に留まる所なので、伊都国で見たことが書かれているとする説があり、また倭国の全般的な記述で特定の国のことではないという説もあります。
風俗記事は量こそ少ないが地理記事の中にも見られます。表はそれを国別に整理したものですが、末盧国と伊都国との間でその量や質が変わっており、記述上の断絶が有ることがわかります。(表をクリックしてみてください)
末盧国までの記事には草木のこと、漁労や道路のことなど、現地を見た者でなければ書けない写実性豊かな記述が見られますが、伊都国以後には写実性のある記述がほとんど見られず、方位、距離、官名など、倭人から聞いたと思われるものばかりになります。
帯方郡使の張政は末盧国までは確実に来ていますが、まだ伊都国へは行っていないので伊都国以後の記事に写実性のある記述が見られないのです。これは「従群至倭」の行程が末盧国で終わっていることを表しています。張政は伊都国までは行ったが邪馬台国には行かなかったという説がありますが、末盧国と伊都国の間には記述上の関連はありません。
同様のことが末盧国の方位についても言えます。倭人伝の末盧国の地理記事には方位が記されていません。陳寿が書き忘れたということも考えられますが、「従群至倭」の行程は末盧国で終わっているので書く必要がなかったと考えることができます。
「従群至倭」は帯方郡から邪馬台国に至る行程ではありません。陳寿は邪馬台国を倭の一国としか見ておらず、その位置などほとんど問題にしていません。問題にしているのなら「水行十日、陸行一月」「水行二十日」などと書かずに、ちゃんとした里数値と示しているはずで、問題にしているのは私たちだけなのです。陳寿はあの世で、邪馬台国の位置に血道をあげる私たちを見て苦笑していることでしょう。
「従群至倭」の行程中の国は帯方郡と倭国の位置関係を説明しているのであり、伊都国以後は「自女王国以北」の国です。「自女王以北」は倭国にどのような小国が有るかを説明しています。投馬国や邪馬台国、あるいは国名だけが列記されている21ヶ国や女王に属さない国も同様です。
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