『日本書紀』第二の一書は大国主の出雲の国譲りの後に、三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属したとし、この時に「天の高市」に八十万神(やそよろずのかみ)が集められ、大物主は八十万神を率いて天(高天が原)に昇り、高皇産霊尊に誠意を示したと述べられています。
このことは『古事記』にも『日本書記』の他の一書にも見えませんが、大国主と大物主が別神になっています。大国主の出雲の国譲りの神話はよく知られていますが、大物主の「大和の国譲り」のことはあまり知られていません。
この神話は畿内説では完全に無視されていますが、八十万神が集まったという「天の高市」は律令制大和国高市郡に由来すると考えられています。高市郡には式内社が54坐ありますが、そのうちに高市を冠したものが3坐あります。
高市御縣坐鴨事代主神社 橿原市雲梯町
高市御縣神社 橿原市四条町
天高市神社 橿原市曽我町
橿原市雲梯町の高市御縣坐鴨事代主神社のように、高市郡は賀茂氏の祭る事代主に関係する土地のようですが、賀茂氏は葛城郡を本貫の地とする氏族です。高市郡の北隣りの磯城郡に纒向遺跡や箸墓古墳があり、近くの三輪山は大神氏の祭る大物主の神体とされており、磯城郡は大物主に関係する土地です。
9代開化天皇までの皇宮は高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり、鳥越憲三郎氏はこれを葛城王朝と言っています。10代祟神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇の3代の皇宮は磯城郡の三輪山周辺にあり、これを三輪王朝と言っています。
「天の高市」に集まった八十万神とは葛城山、畝傍山・三輪山周辺の宗族であり、後に大和盆地の南部が初期天皇の皇宮・陵墓の所在地になることを示唆しているのでしょう。纒向遺跡・箸墓古墳周辺は城上郡大市郷ですが、飛鳥・奈良時代には市場がありました。
高市もまた市場があったことに由来するのでしょう。「天の高市」は大和盆地の東南部に市場があったということで、単に高市郡のことだけでなく桜井市金屋の海柘榴市や、隣の磯城郡にある大市(纒向遺跡)の記憶も含まれていると考えます。
纒向遺跡は大和朝廷成立以前には市場や「寄り合い評定」を行なう広場になっていたが、葛城王朝・三輪王朝の政治の場に変わるのでしょう。纒向遺跡で出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもので、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。
その土器は研究者によって古墳時代初頭のものとされたり、弥生時代終末期のものとされたりする、庄内式と呼ばれている土器と並行する時期のもののようです。私はこの庄内式期の始まりを通説よりも20~30年新しく見て270年ころとし、このころ大和朝廷が成立すると考えています。
高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡には北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土する小形重圏文仿製鏡などがあるとされています。そしてこれを北部九州と畿内を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」が成立していたとされています。
畿内説は北部九州と畿内が統合されていることが前提になりますから「二つの地域社会」は説明できません。「二つの地域社会」が併合されて大和朝廷が成立し、纒向遺跡が最盛期に入っていくと考えるのがよいようです。
場所によっては30%にもなるという纒向遺跡の外来土器は、纒向遺跡が大和朝廷の基礎の固まった葛城王朝の政治の場になったことを示していると考えるのがよさそうです。その始まりが大物主・事代主の「大和の国譲り」の物語になっているようです。
私は大国主を島根県加茂岩倉遺跡の39個など、中国地方に多い近畿2・3式などの古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島に多い近畿4・5式などの新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族と考えるのがよいと思っています。
神話は史実ではないとも言われますが、台与が即位した247年から間もないころ、「倭の種」の諸国を統一する動きが出てきます。その結果大国主の出雲の国譲りに続いて、大物主の「大和の国譲り」、あるいは神武東遷に語られているような史実があったと考えます。
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