2010年7月18日日曜日

倭面土国 その4

前々回に述べた「第3の読み方」が可能であれば、一大率のいる伊都国とは別に、「刺史の如き」者のいる国があことが考えられます。西嶋定生氏は面土国の存在を疑いつつも「倭面土国」という記載が存在する以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになる」とされていました。

「刺史の如き」者のいる国が面土国であることが考えられます。西嶋氏は「倭面土国王」の記事のある『翰苑』は唐初期に成立し、『通典』は唐中期以後に成立していることなどから、唐代初期に倭国をヤマト国と言うようになり、それに「倭面土」の文字を当てたとされるようになります。

それが誤記されて倭国王帥升が「倭面土国王」とされるようになっのであり、2世紀に面土国という国が存在したというのではないとされます。西嶋氏は帥升を伊都国王だと考えられていたようですが、西嶋氏は文献史学界の重鎮であり、一般通念では権威者が言ったことはそれだけで正しいと受け取られます。

現在では寺沢薫氏がこの考えを継承されていますが、寺沢氏も現在の考古学会の権威です。そうした中で私などがいくら面土国の実在を主張してみても認められることはないでしょう。「第3の読み方」は私が考えているだけの独自の読み方ですが、この読み方が可能なら帥升を伊都国王ではなく面土国王とすることができます。

倭人伝は伊都国について「世有王、皆統属女王国」と記していますが、これが帥升を伊都国王だとする根拠にはなりそうもありません。帥升を伊都国王とする説は「そう考えることもできる」という程度の仮定に過ぎず、何等の根拠もありません。

倭人伝に面土国の名があれば問題はないのですが、伊都国の名は見えるものの面土国の名は見えません。しかし国名こそ見えませんが「第3の読み方」が示すように、倭人伝の記事の多くは、正始8年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞です。

倭人伝の対馬国から邪馬台国までの8ヶ国については全体を直線行程と見る説と、伊都国以後は放射行程とする説があります。伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文字・文が見えないことから、高橋善太郎氏は末盧国までが直線行程で、伊都国以後は末盧国を起点とする放射行程だとしています。

これは張政は末盧国までは来ているが未だ伊都国には至っていないということであり、末盧国と伊都国との間に張政の現在地があるということです。対馬国から末盧国までは「従郡至倭」の行程中の国であり、伊都・奴、不弥の3ヶ国は「自女王国以北」の国です。正始8年の張政の現在地はその接点になります。

それは「従郡至倭」の行程中の国でもなく、かといって「自女王国以北」の国でもないという、地理記事の中では中途半端な位置づけになっています。このために倭人伝に面土国という国名を記す場所がなく倭人伝にその名が見えません。

このことは倭人伝だけに限ったことではなく、東夷伝の地理記事全体について言えることです。先に「稍」という考え方に絡めて各国の地理記事を考察してみましたが、参考にしてみてください。方位・距離の起点は郡冶所や国都などの「中心地」ですが、その起点が明示されている例はまったくありません

ことに挹婁伝の「夫余の東北千里に在り」などは正始6年の毌丘倹による高句麗再討伐の際の、玄菟郡太守・王頎の行動経路が分からないと、その方位・距離の起点が分かりません。挹婁伝の「東北千里」は、夫余王の国とその季夫父子の国とが別の国だと考えないと理解できません。

倭人伝の場合も同様で伊都国以後の諸国の方位・距離の起点になっている場所の名が書かれていません。その張政の現在地が面土国であり、それは筑前宗像郡です。捜露が行われたのは宗像市田島の宗像大社辺津宮の位置だと考えています。

宗像大社神宝館前の駐車場にある万葉歌碑付近に浜殿があったことが伝えられていますが、浜殿は船が祠になったもののようで、張政の乗った船もこのあたりに着岸したのでしょう。その捜露が行われた場所に、後に宗像大社の辺津宮が創建されるようです。

2・3世紀に面土国が存在したのであれば、このようなことも考えられるようになりますが、それは宗像大社に係わる神話や、北部九州に見られる銅矛・銅戈などの青銅祭器にも関係してくるようです。

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