玄菟郡太守としての王頎の記事は挹婁の南境まで進んだところで終わっており、その後は帯方郡太守としての記事になります。正始7年、帯方郡太守の弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしましたが、韓はこれに応じず帯方郡の崎離営を攻撃して弓遵を戦死させます。
戦死した弓遵に替わって帯方郡太守に着任した王頎は、塞曹掾史の張政を倭国に遣わして、弓遵の戦死で帯方郡に留め置かれたままになっていた黄幢・詔書を届けさせています。韓伝・倭人伝の地理記事はこの時の張政の見聞です。
韓は帯方の南に在り、東と西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。方四千里ばかり。
倭人伝・韓伝以外の諸伝の距離を見ると、北沃沮が八百里とされている以外はすべて千里であり、その広さは例外なく「方二千里」となっています。東夷伝の地理記事は稍の考えに基づいて書かれています。ところが韓は2倍の「方四千里」になっています。
「方四千里」は520キロ四方ということになりますが、どのように見ても韓は520キロ四方もありません。図の韓と高句麗の円を比較すれば分かりますが、倭人伝・韓伝の千里は半分の百五十里(65キロ)です。
山尾幸久氏は東夷伝の里数値には「韓・倭人伝誇大値」と「他の実定値」があるとされています。(『魏志倭人伝の資料批判』立命館大学、1967年)山尾氏の言われる「他の実定値」とは、「王城を去ること三百里」を千里と称し、六百里四方を「方二千里」と称しているということでしょう。
それに対し、「韓・倭人伝誇大値」は百五十里を千里と称しているということのようです。山尾氏は方位・距離の基点・終点を国都などの「中心地」としていますが、「他の実定値」も「韓・倭人伝誇大値」も国境までであって中心地までではありません。
204年ころ公孫氏は楽浪郡屯有県以南の荒地を分割して帯方郡を設置します。帯方郡冶はソウル付近だと考えられていますが、嶺東(日本海沿いの地域)は濊貊が支配していますから、後に帯方郡がそのまま京畿道になると思えばよいようです。それは規定の郡の四分の一程度の面積しかないことになります。
上図はこのことを表していますが、帯方郡の位置を示す円が楽浪郡と重なり合う形になっています。これは帯方郡が楽浪郡を補助する郡であることを表していますが、同時に「稍をもって郡とする」という郡の規定を満たしていないことも表しています。
山尾氏の言われる「韓・倭人伝誇大値」は、帯方郡は郡が小さいのでそれに比例して千里も短いということでしょう。王城から三百里までを稍、二百里までを遂、百里までを郷といいますが、帯方郡は遂と郷の中間の大きさのようです。そこで帯方郡では百五十里を千里としているのでしょう。その実際の広さは「方三百里」になります。
「方四千里」は他の諸伝に見える「方二千里」と同じで六百里(260キロ)四方です。7年に弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしたのは、韓も冊封体制によって支配領域を制限されていたということでしょう。韓については倭人伝に次のように述べられています。
郡より倭に至るには海岸に沿って韓国を経る。乍(たちま)ち南し、乍ち東して狗邪韓国に至る。七千余里
七千余里は1050里(456キロ)になります。前回の投稿では現在の全羅南道と慶尚南道の境が南海島なので、狗邪韓国の西境を南海島付近としましたが、もっと西の全羅南道康津郡のあたりでなければ距離が合いません。訂正します。康津郡付近が七千余里の終点のようです。
万二千里については通説では帯方郡から邪馬台国までの距離とされています。帯方郡~末盧国間を一万里とし、これに伊都国までの500里を加え、残りの1500里が伊都国~邪馬台国間の距離だとされていますがこれは誤りです。
稍の考え方では方位・距離の終点は国境・海岸など境界ですから、万二千里の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。そうすると通説で末盧国~邪馬台国間の距離とされている二千里はどのような距離かということが問題になります。
この二千里(130キロ)は狗邪韓国の西境(全羅南道康津郡付近)から対馬国(対馬)への渡海地点までの距離であり、渡海地点は巨済島の西海岸になりそうです。つまり帯方郡から対馬国(対馬)への渡海地点までは七千里ではなく九千里なのです。
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