2010年10月18日月曜日

三角縁神獣鏡 その3

三角縁神獣鏡に見える記年と副葬された時とには100年程度の差がありますが、柳田康雄氏は当時の平均寿命を40~50年と見て王の在位期間を20~30年間とし、銅鏡が鋳造された時に20~30年をプラスしたものが副葬された時になるとされています。

これには銅鏡が威信財として伝世されたことが考えられていませんが、畿内説の年代論は鋳造と副葬の年代差をゼロに近づけることに腐心しているような印象を受けます。しかし年代差がゼロ、あるいは副葬されるのが先になることはあり得ません。

現時点の「年輪年代測定法」や「放射性炭素(C14)年代測定法」の精度では主観・主張が先行すれば副葬されるのが先ということにもなりかねません。銅鏡が副葬されるのは威信財としての価値なくなるからで、年代差をいくらゼロに近づけても三角縁神獣鏡の問題点は解決しないようです。

中国・朝鮮半島の銅鏡は私財であり一代限りで副葬されるのかもしれませんが、それが日本に渡ってくると威信財になり伝世されるようです。弥生時代の銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財でしたが、古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを表す威信財になるようです。

卑弥呼・台与は魏から「親魏倭王」に冊封されて「邑君」「邑長」のような魏の官職を与えることができ、印綬の代わりに銅鏡を配布したと考えています。そのために大量の銅鏡が必要になり、魏から与えられた銅鏡だけでは絶対数が不足し、小形仿製鏡や後漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られるようです。

高倉洋彰氏によると(『三世紀の考古学』、学生社、昭和56年)、小型仿製鏡の時期は3段階に分かれ、第一段階(後期初頭~前半)と第二段階(後期中頃~後半)には北部九州で鋳造され、分布も北部九州を中心にしているということです。

ところが第三段階(終末期~古墳時代初頭)になると、小形重圏文仿製鏡などのように北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土するものがあり、第三段階には北部九州と近畿とその周辺の両方で鋳造されたということです。そして次のように述べられています。

仿製鏡の第三段階に北部九州と近畿を中心する地域との二つの製作地がみられることは、取りも直さず、他の資料からも知られるように大きな範囲の二つの地域社会が成立していたことを示すにほかならない。この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある。

「この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある」とされていますが、検討方法の一つが畿内説・九州説の分析であり、青銅祭器の分布の分析と見ることができます。しかし畿内説では仿製鏡の第三段階に「二つの地域社会」が並存することにはなりません。

畿内説の寺沢薫氏は2世紀末の倭国大乱によって、北部九州を中心とする「イト倭国」から、大和を中心とする「新生倭国」(ヤマト王権とも)へ転換したとされていますが、この説では二世紀末にはすでに九州と畿内は統一されていることになり、「二つの地域社会」が説明できません。これは寺沢氏の説に限らず畿内説全般に言えることです。

高倉氏は第三段階の小形仿製鏡の時期を弥生時代終末期~古墳時代初頭とされていますが、これは古墳時代初頭に「大きな範囲の二つの地域社会」が一つの民族国家に統合されたということで、大和朝廷が成立し古墳が築造されるようになることを表しているようです。

大和朝廷の成立は3世紀後半の270年ころだと考えています。第三段階の小形仿製鏡の鋳造が始まるのは、卑弥呼の時代に印綬の代用として銅鏡が配布され大量の鏡が必要だったからですが、大和朝廷も大量の鏡を必要としたので三角縁神獣鏡の鋳造が始まると考えます。

高倉氏は小形仿製鏡・分割鏡について、「仿製され、鏡片化される要因はこのような中国鏡、おそらくは長宜子孫内行花文鏡の絶対数の不足にある」とされていますが、長宜子孫内行花文鏡は後漢の滅亡ですでに価値を失っており、絶対数が不足したのは画文帯神獣鏡などの魏鏡だと考えます。

画文帯神獣鏡も265年の魏の滅亡で、冊封関係を表す威信財としての価値は無くなるようです。しかし間もなく成立する大和朝廷が卑弥呼の王権を継承していると称しので卑弥呼の王権を象徴する威信財としての新たな価値が生じるようです。

画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も副葬されるのは4世紀中葉~後半になるようです。三角縁神獣鏡は初期の大和朝廷が画文帯神獣鏡などをモデルにして鋳造させたもので、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡などの記年をコピーしたものだと考えます。

呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡がありますが、中国が晋によって再統一された280年以後に大和朝廷が鋳造させた国産鏡だと考えるのがよさそうです。

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