今回もまたすでに述べたことの繰り返しになります。私は『魏志』倭人伝・青銅祭器・神話・部族は相関々係にあると考えています。さらに部族との関係から六百里四方の「稍」や、中国の冊封体制を考えてみる必要があるとも思っています。
ところが「部族」のことがほとんど問題にされていません。寺沢薫氏の著作『王権誕生』は分かりやすくて説得力があります。度々引用して恐縮ですが、また『王権誕生』から引用させていただきます。
寺沢氏は大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとし、イト倭国の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められ、卑弥呼を王とする新生倭国(ヤマト王権)が誕生したとされています。
この「部族的な国家」とはどのような国家を言うのでしょうか。別の深い意味もあるようですが、卑弥呼の時代と比較して未開、ないしは遅れている状態を「部族的」と表現されているように思われます。
部族という場合、こうした意味で使用される例が多く、アメリカ・アフリカ・オーストラリア原住民などの未開な社会が思い起こされます。これが定着しているために部族は差別用語であり、日本に部族が存在したなどとは思いたくないという先入観があるように感じます。
しかし東夷諸国には部族が存在していました。『魏志』高句麗伝によると、高句麗の有力な部族には桂婁部、消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部の五部族があり、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主だったが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていったということです。
夫余では有力な部族長は馬加・牛加・猪加・狗加などと家畜名で呼ばれていました。加とは部族長を意味しその下に宗族長がいます。辰韓では土着の金と流移民の朴、昔などの宗族が結合した斯盧族が優勢でしたし馬韓では伯済族が知られています。
日本でも弥生時代に部族が存在したことは考えられてよく、その痕跡も見られます。社会人類学では部族をトライブと言っていますが、その定義では部族は共通の言語や祭神を持ち、一共通領域を占有し、同質の文化、伝統を持つ人々の集団とされています。
定義を持ち出すと分かりにくいのですが、通婚することで形成された地縁・血縁的な統一体が、擬制された共通の祖先を持ち、その祭祀を行い、方言で会話すると、それが部族だと考えればよいのでしょう。
少しニュアンスが違うようですが「首長制社会」に近いと考えればよいとも思っていますが、ここで言う部族は宗族(氏族)と民族の中間に位置する「擬制された血縁集団」であって、文化の遅れた集団という意味ではありません。
中国の氏族はクランと呼ばれるものでトライブ(部族)ではありませんが、よく似ていて氏族統一の象徴として神話・伝説上の始祖を持ち、また祖先を祭る宗廟を持っており、宗廟には「神主」と呼ばれる日本仏教の位牌に相当するものを安置して厳格な宗廟祭祀を行っていました。
神話や伝説で同族とされているのではなく、実際に血縁関係のたどれる集団がリネージですが、中国の宗族はリネージに当たります。姓の異なる宗族が連宗(宗族が合流すること)することもありますが、そうした宗族はリネージを擬制したクランであり、形態は宗族でありながら、実態は氏族という巨大な宗族が存在していました。
『魏志』倭人伝は倭人社会にも宗族(リネージ)が存在していることを述べています。
其の法を犯すに軽い者は其の妻子を没し、重い者は其の門戸を滅し宗族に及ぶ。
文中に親族関係を表す妻子、門戸、宗族が出てきますが、三世紀中ごろの倭人社会に、中国の門戸、宗族に相当するものが存在していました。倭人社会には中国の氏族に相当するものは存在していなかったようですが、それに代わるものが部族です。
紀元前108年に前漢の武帝が楽浪など4郡を設置して以後、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれますが、弥生時代後半には中国の氏族の影響を受けた部族が出現してくるようです。
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