2010年8月10日火曜日

部族 その4

私は「律令制社会」の前の古墳時代を「氏姓制社会」とし、その前の弥生時代を「部族制社会」とするのがよいのではないかと思っています。「部族制社会」とは部族が首長や王を擁立する社会という意味です。

古墳時代以前については「原始社会」と呼ばれた時代があったようですが、実情に合わず今では「首長制社会」と言われているようです。しかし弥生時代後半には王が出てきますから弥生時代が純粋な「首長制社会」だとは言えません。

首長は土侯とか酋長と言われていましたが、差別用語だということで現在では首長と呼ばれるようになっています。私は日本の王と首長の違いは、首長が中国の冊封体制に組み込まれて王として認められているかどうかだと考えています。

弥生時代前半は部族が首長を擁立し、後半には王を擁立するようになる考えるのですが、そのような意味で弥生時代を「部族制社会」と呼ぶのがよいと思うのです。とすれば57年に奴国王が「漢委奴国王」に冊封される以前には首長は居るが王は居ないことになります。

それは奴国・面土国・女王国のある北部九州に限って言えることであり、他の地方は首長制社会のままだということになります。しかし冊封体制には隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないという職約(義務)があり、冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていました。

他の地方の首長も王と同じだと考えるのがよさそうです。弥生時代前半までの部族は律令制の郡程度の通婚圏ごとに部族国家を形成したでしょう。部族国家の首長は有力な宗族が擁立しますが、弱小の宗族もその首長の支配を受けたと考えられます。

弥生時代後半になると部族は宗族長など支配者層の母系の親族集団になり、部族は王を擁立するための政治的集団になっていくようです。王の擁立を巡って対立するようになりますが、その部族の集まりを部族連盟と呼び、その国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと考えます。

高句麗も部族連盟国家で、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主でしたが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていきました。部族国家は部族が国を形成したものですが、部族連盟国家はその部族国家が統合されて、さらに規模の大きな国を形成している状態だと考えるのがよいと思っています。

倭人伝には戸数千~三千の小国と二万~七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていました。この小国が部族国家であり、女王国が部族連盟国家だと考えるのがよいようです。邪馬台国・奴国・投馬国などの大国は、部族国家が統合されたもので部族国家と部族連盟国家の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。

部族連盟国家は王が支配しますが、王は冊封体制によって支配領域を六百里四方の稍に制限されていたので、部族連盟国家も六百里四方以下に限定されました。しかし部族は王を擁立するが王そのものでもなく、また国そのものでもないので冊封体制の制限を受けません

部族が幾つの稍を支配してもよいし、何人の王を擁立してもよいのです。このことから弥生時代後半には複数の稍に同族が分布していて、複数の部族連盟国家の王を擁立することのできる巨大な部族が現れてきます。

高句麗には5大部族が存在していましたが、倭には4大部族が存在していました。北部九州から中国、四国地方にかけて、銅矛、銅戈を配布した部族があり、東海から中国・四国地方にかけて銅鐸を配布した部族がありました。中国、四国地方には銅剣を配布した部族もありました。  
 
2世紀の北部九州では銅戈を配布した部族が優勢で、面土国王の帥升を部族連盟国家(筑紫)の盟主に擁立しますが、3世紀には銅矛を配布した部族が優勢になります。倭国大乱で盟主の座は卑弥呼に移りますが、このことが銅戈を配布した部族の衰退する原因になっているようです。

弥生後期後半に製作された広形銅矛が増加しているのに対し、広形銅戈が3本ほどと激減しているのはこのことを示しています。面土国王は遠賀川流域の「自女王国以北」の諸国を「刺史」の如くに支配するようになりますが、小数ながら広形銅戈が存在しているのを見ると、銅戈を配布した部族が消滅したのではないようです。

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