『日本書記』の一書の多くは神武天皇の別名をホホデミとしていますが、日向にはホノニニギの子のホホデミを神武天皇とする伝承があったようです。ホノニニギは『梁書』『北史』に見える台与の後の男王ですが、神武天皇がその後継者なら、その活動時期は260年代と見ることが可能になってきます。
『晋書』四夷伝 倭人条によると司馬昭が相国だった7年間に何度かの倭人の遣使がありましたが、それは神武天皇の東遷が急がれていたからでしょう。しかし魏は滅亡寸前でしたから、神武天皇が冊封を受けたのは晋が成立した翌年の266年になりました。
「東に美しい土地が有り、青山が四周をめぐっている。その中にまた、天磐船に乗って飛び降る者がいる」と言われた。「自分が思うのにその土地は大業を開き、天下を支配するにふさわしい場所であろう。そこがまことの国の中心である。その飛び降るという者は饒速日だという。行って都を造らなければなるまい」と言われた。
晋が成立したことを知った天皇は東征を開始します。途中宇佐に立ち寄よった後、遠賀川々口の芦屋(不弥国)の岡田宮に入りますが、ここに『日本書紀』では1年間、『古事記』では2ヶ月弱滞在したとされています。私は遣使が行われたのは岡田宮滞在中だと考えています。
晋の成立が265年12月ですから、季節風のことを考えると使者の出発は266年初夏、帰国は晩秋だったでしょう。『日本書紀』の岡田宮での1年間の滞在は、遣使に宗像・阿曇・那珂などの海人の協力が必要だったことと、遠賀川流域のニギハヤヒの一族と接触することに目的があったと考えます。
大和にはすでに物部氏の祖のニギハヤヒ(饒速日)が入っていましたが、その経過については『大国主の国譲り』で述べました。ニギハヤヒについては遠賀川流域から大和に移ったという説が有力ですが、遠賀川流域には同族が居たようです。遠賀川流域の ニギハヤヒの同族が東遷に同意したことが、その後を決定したと思っています。
このころ倭人伝に見える大夫の難升米(神話の思金神)がまだ生きていた可能性があります。60歳台にはなっていたでしょうが(『思金神』9月投稿)、司馬昭の7年間の倭人の遣使を発案したのは難升米だと思っています。
彼は卑弥呼時代の経験から冊封体制の利点を熟知しており、倭王の称号がなければ神武天皇の東遷が成功しないことを知っていたでしょう。このことを表しているのが、大和入りした天皇に対するナガスネビコ(長髄彦)の対応です。
天神の子だと言って国を奪うつもりだろうとなじるナガスネビコに対し天皇は「天神の子は多い。お前が主君とする者が本当に天神の子なら、表物(しるしのもの)があるはずである。それを見せ合おう」と答えています。
天神の子であることを表すのが「表物」だとされていますが、倭王であることを証明する品物ということでしょう。神武天皇の持っている「表物」の天羽々矢と歩靫(弓矢と矢入れ)を見たナガスネビコは、天皇が本当の天神の子であることを知ったとされています。
私は天皇がナガスネビコに見せたのは天羽羽矢と歩靫ではなく、266年の遣使で授与された金印と詔書だったと考えています。司馬昭が相国だった7年間に何度かの遣使が行なわれたのは、ナガスネビコに見せた「表物」を入手するためだったと考えます。
後世にはそれは「三種の神器」の鏡、剣、瓊になりますが、「三種の神器」という観念が生じるのは大王位(天皇位)が世襲されるようになって以後で、それまでは奴国王や卑弥呼の例のように中国に遣使して金印と詔書を授与される必要があったと考えます。
神武天皇の東遷はなぜかニギハヤヒを中心にして展開していきます。ナガスネビコはニギハヤヒを主君として仕えていると言っていますが、ニギハヤヒは倭王になれませんでした。それは大和に居て「表物」を入手する手段がなかったからです。東遷の成否が決まったのが266年の岡田宮での一年間だったと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿