天武天皇は「八色の姓」を制定して氏族を最編成しますが、さらに『古事記』編纂の発端になった帝紀・旧辞の撰録を命じています。『古事記』は天神とされている猿女君の伝えたものであるために、地祇・諸蕃が軽視されているようです。地祇・諸蕃の軽視が672年に起きた壬申の乱の遠因にもなっており、また神社・神道が今の形になる転機になるようです。
『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。
私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。
古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。
布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。
物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。
『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。
それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。
最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。
倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。
弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。
これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。
これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。
島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。
これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿