通説では国々に市場がありそれを大倭が管理しており、また女王国の北部には一大率が置かれ諸国を検察しているが、諸国はこれを畏憚しており、一大率が諸国を検察している様子が、あたか中国の刺史のようだというふうに解釈されています。
最初にこのように解釈したのは誰なのかは知りませんが、これはたいへんな誤解です。私見では東洋史の植村清二氏が同様のことを述べています。(『東方学』「魏志倭人伝の一説について」一九六一年)
植村氏は大和にいた大倭が、北九州の伊都国に一大率を派遣して「自女王国以北」の諸国を検察させており、その有様があたかも刺史のようだとしています。この解釈は現在でも通説として罷り通っていますがこの解釈はおかしいと言わざるを得ません。
前漢の武帝が設置した刺史の秩禄は六百石で、主として担当する州内の土着豪族と郡県の官吏の癒着を巡視・検察し中央政府に報告することを任務としていました。そのような意味では前漢代の刺史と一大率は似ているといえます。
前漢時代の刺史は司察官で行政権も軍事権も持っていませんでしたが、任務の性格が中央政府と結び付いていたので権力が強まり、前漢末の成帝の時代には「州牧」と呼ばれるようになり郡太守よりも上位になります。
魏・晋時代の刺史は最高位の地方行政官で、二千石の大夫が任命される州の長官になり、都督諸軍事の資格を持ち軍事権を持つ者もいました。ちなみに幽州刺史の毋丘倹は、公孫淵を討伐するについて度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の武官位を加えられています。
確かに前漢時代の刺史は皇帝に直属して郡県を検察していたので郡県が畏憚したかもしれません。しかし毋丘倹の例にも見られるように魏・晋時代の刺史は州の長官であり、強大な軍事権を付与されることもあります。
前漢時代の刺史と魏・晋時代の刺史の性格は全く違います。このことは『三国志』の編纂者の陳寿自身が『魏志』巻十五の評語で、後漢時代以後の刺史は諸郡を総統する行政官であって、前漢時代の監察だけを行っていた司察官の刺史と同じではないと述べています。
その陳寿が2~300年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して一大率を説明することはあり得ません。魏・晋時代の刺史は行政権も軍事権も持っていますから郡・県を検察することはなく、郡・県が畏憚することはありません。魏・晋代に郡・県を畏憚させる刺史がいたらそれは余程の酷吏でしょう。
今までに実際に刺史の如き者が居るとしたのは小説家の松本清張氏だけです。松本氏は一大率を魏の派遣官だとし、伊都国、邪馬台国以外の28ヶ国にそれぞれ刺史のような役人がいて国内を検察しており、それを伊都国にいる一大率に報告しているのだとしています。
刺史の如き者が伊都国以外の国にいるとしたことは正しいと思いますが、前漢代の刺史が州内を検察していたことに気を取られて、魏・晋時代の刺史が州の長官であることに気付いていません。このことは通説についても言えることです。
28ヶ国は中国の郡・県に相当すると思われ、少なくとも州には相当しません。魏・晋時代の刺史は中国にあった14の州の内、首都圏以外の13の州の長官で、前漢代のそれとは全く性格が違います。28ヶ国に州の長官である刺史の如き者がいるはおかしなことです。
「於国中有如刺史」とは国内に刺史の如き者が居るということですが、国中とはどの国のことをいうのでしょうか。一大率のいる伊都国とは別に国があり、その国に州の長官のような刺史の如き者がいると考えないといけません。西嶋氏がかつて述べられていたように、この国こそ面土国と考えるのがよいでしょう。
「於国中有」の国を女王国と見ることも可能です。その場合には女王支配下の30ヶ国に何人かの刺史の如き者が居ることになります。しかしこの部分は「自女王国以北」の諸国のことが述べられ、津で捜露がおこなわれているのですから、刺史の如き者が居るのも「自女王国以北」だけだと考えるのがよさそうです。
卑弥呼は倭国に大乱が起きて共立されますが、大乱以前の70~80年間、面土国王は倭国王として君臨しました。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持していたようです。それが 「自女王国以北」の諸国(筑前の遠賀川流域)を州刺史の如く支配し、女王の行なう中国・朝鮮半島との外交を捜露することに現れているようです。
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