2010年4月20日火曜日

再考・稍とは その2

東夷伝には夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊貊・韓、倭人の七条(伝)がありますが、この7ヶ国と直接・間接に関係を持っている人物がいます。正始8年に帯方郡太守に着任し、張政を倭国に遣わした王頎ですが、接触のないのは濊貊だけです。

その濊貊も帯方郡と国境を接しており、まったく無関係というのではありません。帯方郡太守の弓遵が韓人に殺されたため、玄菟郡太守だった王頎が後任の帯方郡太守に転出しています。東夷伝の地理記事は王頎を抜きにしては理解できないようです。

正始6年の高句麗再討伐で王頎は逃亡した高句麗王の位宮を追って夫余を南下し、高句麗東部を縦断して日本海沿岸の東沃沮に達しています。東夷伝の地理記事の多くはこの時の王頎の見聞に基づいていると見ることができます。

東夷伝序文にも東夷伝を立てた理由として、6年の王頎のことが挙げられています。その王頎の活動を通して稍について考えてみたいと思いますが、その前に高句麗と遼東・玄菟郡の関係を見ておきたいと思います。

紀元前108年、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置しますが、前82年に真番・臨屯は廃止され玄菟郡も西に後退します。武帝の設置した玄菟郡を第一玄菟郡と呼び、移動した玄菟郡を第二玄菟郡と呼んでいます。

後漢第5代和帝のころから周辺の異民族の動きが活発になり、105年に高句麗が遼東郡に入蒄しています。そのためもあるのでしょうが、106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しています。

第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなりますが、図の高句麗の位置が第二玄菟郡のようで、図の玄菟郡は第三玄菟郡です。円の大きさが稍で、直径六百里(260キロ)、半径三百里(130キロ)です。緑色の円は魏の郡であり、白色は鮮卑、夫余・高句麗など異民族の国です。

図では国の位置があまりに整然としているので不自然に思えます。高句麗が西にずれていますが、これは第二玄菟郡がこの位置に在ったことによるのでしょう。この図は部分的には事実ではなく概念です。

概念ではあっても全体的に見ると均整が取れているので、このような図になると思われます。正確な地図などなかったはずですから、冊封体制はこのような概念的な位置が対象になっていたでしょう。

冊封体制の職約(義務)に反すると討伐の対象になりますから、概念ではあってもそれだけに強制力があり、冊封を受ける側はこれに従わざるを得なかったと思われます。

正始4年(243)、高句麗の一部族の小水貊が遼東郡の西安平県を寇略します。西安平県は鴨緑江の河口部西岸の県ですが、小水貊は高句麗の概念的な位置から外れた地域に進出したのです。そのため翌5年、幽州刺史の毌丘倹が高句麗を討伐します。

図の中心になっているのは遼東郡ですが、遼東郡は紀元前311年に燕の昭王が設置して以来、中国の東方経営の拠点になってきました。図で見ると現在の遼寧省の西部は遼西郡ですが、それを除くほぼ全域が元来の遼東郡と思ってよいようです。

武帝が朝鮮半島に置いた四郡のうちの玄菟郡は106年に図の第三玄菟郡の地に移動してきますが、玄菟郡の半分が遼東郡と重なり合う形になっていることに注意が必要です。玄菟郡冶と遼東郡冶の間は六百里ではなく三百里です。

遼東郡の郡域は広大で、周辺には鮮卑や夫余などの異民族がいます。玄菟郡はこれに対応するために置かれた補助的な郡のようです。第三玄菟郡の地に移動したのも鮮卑や夫余、ことに鮮卑に対応するためであったと考えるのがよさそうです。

このことは帯方郡も同様で、帯方郡と楽浪郡も重なり合う形になっています。帯方郡は楽浪郡の補助的な郡のようです。204年ころ公孫康が帯方郡を設置しますが、帯方郡は武帝の置いた真番郡を再設置したものと考えればよさそうです。

正始8年に玄菟郡太守だった王頎が帯方郡太守に転出していますが、どちらも小さな郡です。郡太守(郡の長官)には二千石が任命され、県令(県の長官)には千石が任命されますが、王頎は二千石ではなく1階級下位の比二千石ではなかったかと考えられます。

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