2010年10月11日月曜日

三角縁神獣鏡 その2

三角縁神獣鏡を副葬している古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされ、記年銘と副葬されている古墳の年代には100年、あるいはそれ以上の差があります。また箸墓古墳の築造年代は通説では260~280年ころとされていますが、これにも卑弥呼の時代との間に30年ほどの差があります。

そこで「年輪年代測定法」「放射性炭素(C14)年代測定法」などの方法で、この100年、あるいは30年の差を縮める試みが行なわれていますが、その精度には問題があり研究者の間でも疑問視する考えがあります。この差については次のように考えています。

三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で鋳造されたと推定されている画文帯神獣鏡には3世紀前半の年代が与えられており、三角縁神獣鏡よりも画文帯神獣鏡を重視すべきだという考え方があります。三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡をモデルにした国産鏡であり、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡の銘をコピーしたものだと考えます。

天皇位を象徴する「三種神器」に「八咫鏡」がありますが、この鏡を継承することは天皇の権威・威信を継承していることを表しています。「八咫鏡」が副葬されてしまえば権威・威信を伝えるものとしての意義がありません。

倭人伝に「悉可以示汝国中人、使知国家哀汝」とありますが、弥生時代の銅鏡も単に私財だから副葬されるのではなく、公的な権威を象徴する「威信財」で伝世されていたと考えます。威信は銅鏡と共にその後継者に伝えられますが、威信が消滅すると鏡の威信財としての価値もなくなり副葬されるようです。

つまり三角縁神獣鏡に見られる記年とそれを副葬している古墳の年代の100年ほどの差は、鋳造された時とは無関係の、威信財としての価値があると思われていた期間だと考えます。中国の諸王朝は周辺の異民族と冊封関係を結んでいましたが、冊封を受けた者には倭国王などの称号が与えられ、銅鏡などの賜与の品が与えられます。

賜与の品は分配されますが、分配された銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財になります。その王朝が断絶すると与えられていた威信が消滅しますが、同時に銅鏡の威信財としての価値も無くなり、単なる私財になって副葬されます。100年の差は 中国の王朝によって威信が保障されていたと想定されている期間のようです。

三角縁神獣鏡に威信財としての価値が有ったのは100年間ほどとされていたようですが、杉原荘介氏(1913~1983)も理由を明らかしていませんが、銅鏡が鋳造されてから副葬されるまでを100年とし、このことから1960年に100年ごとに区分する編年を発表し、一時期それが定説になっていました。

私はそれを10年短縮して90年ごとの編年考えています。卑弥呼が王に擁立されたのは西暦180年ころに倭国に大乱が起きたためでしたが、90~180年を後期の前半とするのがよいと思っています。180年ころの中国は後漢の霊帝の時代で、後漢は220年に滅亡します。

90~180年ころに威信財としての価値があったのは長宜子孫内行花文鏡など後漢鏡で、その時期は倭人伝に見える卑弥呼以前の70~80年間の男王の時代と一致し、面土国王が倭国王だった時代に当ります。後漢鏡が副葬されるようになるのは後漢の滅亡や、卑弥呼の共立で面土国王の倭王としての権威・威信が消滅したからでしょう。

その90年後の270年ころ(3世紀後半)に女王の時代が終わり、大和朝廷が成立し古墳時代が始まると考えています。魏が滅んだ翌年の266年に倭人が遣使したのは、神武天皇の東遷に「倭国王」の称号が必要だったからだと考えていますが、魏鏡に威信財としての価値なくなるのは魏の滅亡や大和朝廷の成立が原因でしょう。

その鏡は三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと考えられている画文帯神獣鏡だと考えます。景初3年(239)の銘を持つ画文帯神獣鏡が大阪府和泉黄金塚古墳などで出土しており、青龍3年(235)の銘を持つ方格規矩四神鏡が大阪府安萬宮山古墳などで2面が出土しています。

魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚は三角縁神獣鏡ではなく画文帯神獣鏡ではないでしょうか。方格規矩四神鏡は新(王莽)・後漢時代前半のものとされていますが、220年の後漢の滅亡まで威信財としての価値があったのではないでしょうか。青龍3年の銘を持つ方格規矩四神鏡は卑弥呼の時代以後に鋳造された国産鏡でしょう。

270年ころの大和朝廷の成立から90年後の360年ころまでが、綏靖天皇から開化天皇に至る、いわゆる「欠史八代」の時代だと考えています。この時期が古墳時代前期にあたり、三角縁神獣鏡に威信財としての価値の有ったのが「欠史八代」の時代だと考えます。

台与の即位以後、東晋の義煕9年(413)までの間の遣使は266年だけで、時代が下るにつれて中国からの銅鏡の流入は減少するようです。卑弥呼がそうであったように成立後間もない大和朝廷は服属してきた者に銅境を与えなければならず、大量の三角縁神獣鏡を鋳造したと考えます。

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