2010年5月31日月曜日

親魏倭王 その2

卑弥呼は倭国王であると同時に親魏倭王でもありますが、倭国王と親魏倭王とでは性格が違うようです。その卑弥呼は親魏倭王として隣国である出雲や大和の有力者の個々人に「邑君」「邑長」のような、魏の官職を与えることができたと考えています。

『魏志』韓伝には公孫氏が平定された後、韓の臣智と呼ばれる階層に邑君の印綬が授けられ、それに次ぐ有力者には邑長という位称が授けられたとありますが、『日本書紀』一書第十一の神話には月夜見尊が保食神を殺した後に「天の邑君」が定められたとあります。

この神話は248年から間もないころに女王国が狗奴国を討伐したことが語られているようですが、帰順してきた者に邑君・邑長のような魏の官職が授けられたことを表していると考えています。韓の臣智には邑君の印綬が授与されましたが、日本では邑君の印綬が授与された形跡はありません。

印綬は木簡を封印するための印と、それに付いている組紐ですが、西嶋氏は中国との間には三世紀にすでに「文書外交」が成立していたとされています。しかし倭人の間で「文書外交」が行なわれたようには思われません。

文字が一般化していない倭人の間では印綬は必要のないものですから、親魏倭王の卑弥呼が印綬に代わるものとして与えたのが銅鏡だと考えています。倭人伝に見える百枚の銅鏡は三角縁神獣鏡ではないかと言われていますが、このような大型の完境は高位の者に与えられたでしょう。

メダルのような小型の仿製鏡は副葬品として出土しますが、後漢鏡を故意に数個に分割した分割鏡は住居址で出土すると言われています。これらは邑君・邑長など下位の者に与えられたもの、邑君には宗族長階層が任ぜられ、邑長には門戸の長が任ぜられたのではないでしょうか。

熊本県山鹿市方保田東原遺跡で小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、この地は菊池川流域の中心地であり、狗奴国の官の狗古智卑狗との関係が考えられます。8点の小型仿製鏡・銅鏡を持っていたのは台与から邑君・邑長に任ぜられた狗奴国の有力者のように思われます。

部族の配布した青銅祭器は同族関係にある宗族であることを表しますが、銅鏡には印綬のような性格があって、女王国内の有力者に限らず、大和や出雲の有力者の中にも、卑弥呼の元に使者を送り貢物を献上して、魏の官職と銅鏡を与えられた者がいたと考えます。

後漢鏡は北部九州を中心として分布し、魏晋鏡は畿内を中心として分布することから、邪馬台国は畿内にあったと言われています。しかし親魏倭王の性格から見ると、女王国と敵対し親呉勢力になる可能性のある、出雲や畿内、及びその周辺の有力者に優先的に配布された考えるのがよさそうです。

高倉洋彰氏は小型仿製鏡の時期を3期に分け、2期の小型仿製鏡は後期中葉~後半に北部九州で作られ、3期(終末期~古墳時代初頭)の小型仿製鏡は北部九州と近畿及びその周辺で別個に作られたので、北部九州で出土しない鏡種があると指摘されています。(『三世紀の考古学』、学生社)

3期に畿内及びその周辺でも小型仿製鏡の製作が始まるのは、2期に卑弥呼が親魏倭王に冊封され、3期には畿内とその周辺でも部族制社会から氏姓制社会に変わる機運が出てきたということであり、邑君・邑長に任ぜられる階層を取り込む必要があったということだと考えています。

邑君・邑長の官職は親魏倭王以外には授けることができず、青銅祭器を配布した部族の部族長にも、稍を支配する王にもこの官職を授ける権限はなかったでしょう。これは女王国のみならず倭人社会全体に、部族が擁立した王と冊封体制によって権威づけられた親魏倭王という二重のヘゲモニー(覇権・主導性)が存在しているということのようです。

それは弥生時代の部族社会が古墳時代の氏姓制社会に変わっていく接点に、卑弥呼がいるということでしょう。1月投稿の『出雲神在祭』で述べましたが、部族社会の統治方法は有力者が集まって合議する「寄り合い評定」でした。

それに対し氏姓制社会は大王(後の天皇)が氏族長に姓(かばね)を与えて統治を分担させ、大王は氏族を間接的に支配するものです。親魏倭王も宗族長など有力者個人に魏の官職を与えることにより間接的に倭人を支配するもののようです。

共に部族の存在理由がありません。大和朝廷の成立と共に部族は消滅し、部族の配布した青銅祭器は埋納されます。それに代わって登場してくるのが与えられた銅鏡を神体とする氏神の祭祀のようです。氏神は氏族の始祖を神として祀るものですが、銅鏡を与えられた人物が始祖とされているように思われます。

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