2010年11月21日日曜日

纒向遺跡 その4

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡に、北部九州では出土せず近畿とその周辺で出土するものがあり、北部九州と近畿とその周辺を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」があるとされています

畿内説では二世紀末の倭国大乱の時点で九州と畿内はすでに統合されており、西日本一帯を支配する統治機構が存在していることになって、終末期~古墳時代初頭の「二つの地域社会」が説明できません。3世紀後半に「二つの地域社会」が統合されたことが考えられます。

弥生時代終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が存在していたか、あるいはそれ以前に統合された民族国家の倭国になっていたのかが、畿内説と九州説の分かれ目になると思っています「二つの地域社会」が存在していたとするのが九州説であり、すでに統合されていたとするのが畿内説になります。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものです。北部九州の部族は銅矛・銅戈を配布し、近畿を中心にした地域の部族は銅鐸を配布しました。

上の図は後期前半の分布状態で、中国・四国地方に銅剣・銅鐸が分布していることが示されています。下の図は後期後半の分布状態で中国・四国北部から青銅祭器が姿を消し、四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しています。

私は上図と下図の境を180年ころだと考えています。つまり倭国大乱の結果、中国・四国地方から青銅祭器が姿を消し、四国東南部で銅矛と銅鐸の分布が交錯するようになる考えます。

四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しているのは、終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が四国で対峙していたことを表しているようです。全ての青銅祭器が姿を消すのは270年ころに部族が統合され大和朝廷が成立したことで、対峙が解消したということでしょう。
銅鐸の分布圏が統合されるについては2段階があり、第Ⅰ段階は投稿「その2」で紹介した『日本書紀』第二の一書の三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属する物語になっています。

私は神話の神は青銅祭器を用いた部族・宗族だと考えていますが、大国主を中国地方に多い古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島などに多い近畿4・5式など新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族だと考えています。

「大和の国譲り」の神話では讃岐・紀伊・筑紫・伊勢・阿波・出雲の忌部が定められたとされていますが、筑紫と出雲以外は近畿4・5式銅鐸の分布圏です。「大和の国譲り」で下図の近畿4・5式銅鐸が分布している四国東部から紀伊半島、及び大和の南部が、北部九州で発生した物部・中臣氏の統治下に入るようです。

第2段階は投稿「その3」で述べた神武天皇の東遷で、大和盆地南部の葛城山、畝傍山・三輪山周辺を中心にして、近畿式銅鐸の分布圏が統合されたことが語られています。また東海の尾張氏や近江との接触もあり三遠式銅鐸の分布圏も統合されるようです。

卑弥呼の死、台与の即位は247年ころですが、大和朝廷の成立は倭人が遣使した266年の直後の270年ころになると思っています。その差は20~30年ですが、その間に大物主の「大和の国譲り」や神武天皇の東遷があったようです。

この20~30年の年代差を考古学で立証するのは不可能かもしれませんが、3世紀の後半に弥生時代が終わり古墳時代になるとされていますし、青銅祭器が姿を消すのもこのころです。『日本書記』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、これも大和朝廷の成立に何等かの関連があると考えるのがよさそうです。

畿内説は神武天皇の東遷や初期天皇の存在を、三角縁神獣鏡や古墳、あるいは年代の操作で摩り替える「神話の否定論」でもあるようです。考古学は実証を重んじる学問で、神話や初期の天皇の存在を否定するので説明できず、あえて避けられているような感じを受けます。

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