57年に奴国という部族国家の首長が遣使して、後漢から「漢倭奴国王」に冊封され、初めて倭人の王が出現します。107年には面土国という部族国家の首長の帥升が倭国という部族連盟国家の盟主として遣使し、「倭国王」の称号を授けられます。
さて卑弥呼ですが、卑弥呼は銅矛・銅戈を配布した部族に共立されて倭国という部族連盟国家の盟主になり、魏から「親魏倭王」に冊封されますが、邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の首長(王)ではありません。邪馬台国の首長は倭人伝に見える「大倭」であろうと思っています。
倭人伝は当時の日本を女王国、倭国、女王、倭、倭人、倭種、倭地という用語で表し、それぞれ特定の意味で使い分けています。女王国は卑弥呼、または台与の支配している北部九州の三〇ヶ国です。そして倭国は倭人伝に三回出てきます。
①その国、もと亦男子をもって王となす。とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。
②詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假す
③王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣いるに、郡の倭国に使いするや、皆津に臨んで捜露す
①の倭国は卑弥呼が王になる以前には男子が王だったというのですから、この倭国と女王国は同じものです。②の倭王は卑弥呼ですからこの倭国も女王国です。③は卑弥呼・台与の使者も津で捜露を受けるというのですから、この倭国も女王国と同じです。
西島定生氏は倭人伝に見える倭国は、倭王である卑弥呼・台与と直接に関係のある場合に用いられており、倭国という国号は外交関係だけに用いられるものであるとされています。そしてこの倭国は女王国と同じものです。
漢・魏王朝は冊封体制によって外臣の王の支配する国の面積を稍、つまり王城を中心とする六百里四方(260キロ四方)に制限していました。倭王が少なくとも東日本の半分までを支配すると六百里という限度をはるかに越えます。
冊封体制の目的は周辺諸国を懐柔・分断し、中国に敵対する大勢力の出現を阻止することにあります。その中国が六百里以上を支配する王を冊封することはありません。卑弥呼が支配しているのは北部九州にあった女王国であり、それが倭国です。
古墳時代になると部族連盟国家が統合されて大和朝廷が成立し、民族国家(日本民族の国)の倭国が誕生します。それは270~80年ころのことだと考えていますが、女王国は北部九州にあった部族連盟国家の一つに過ぎません。
また寺沢薫氏の『王権誕生』から引用させていただきます。大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとされ、これを「イト倭国」と呼ばれています。
その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わって、卑弥呼を王とする「新生倭国」(ヤマト王権)が誕生したとされ、奈良県桜井市の纒向遺跡が新生倭国の王都であり、その延長線上に大和朝廷が出現してくるとされます。
『王権誕生』にはこの「部族的な国家」と言う表現が散見され、「部族的国家連合」という表現も見られます。「部族的国家」は政治学者の滝村隆一氏の提唱された考え方だそうですが、寺沢氏はこれを「大共同体」と呼び、「クニ」と片仮名で表記されているようです。
私のいう「部族国家」と寺沢氏の言われる「大共同体」(クニ)とは同じもののようですが、「部族的な国家」は卑弥呼の時代以前の状態の国という意味のようで、私の考える宗族の通婚圏が「部族国家」になるというのとは違うようです。
「部族的国家連合」も同じで、私の考えている部族連盟国家とは違うようです。また「倭国」について、寺沢氏は「新生倭国」を「ヤマト王権」とも呼び、律令時代の大和朝廷の前身が、卑弥呼の時代に始まるとされています。
神話では卑弥呼・台与は天照大御神とされているようです。その五世孫の神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するとされ、部族連盟国家の倭国(女王国)と民族国家の倭国(大和朝廷支配下の倭国)とは連続しているとされています。しかし実質的には別であり、部族連盟国家が統一されて民族国家の倭国になると考えるのがよさそうです。
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