2010年5月25日火曜日

親魏倭王 その1

西島定生氏は卑弥呼の親魏倭王について、魏の皇帝と君主と下臣の関係にあるという意味の王だとされています。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文堂)他説では倭国王と親魏倭王の違いがほとんど考えられていません。

前回には推察ですが狗奴国が呉の冊封を受けていたのではないかと述べました。魏の側からすれば親魏倭王は、呉と連携しようとする国が出現するのを阻止するための王のように思われます。

後漢が滅ぶと魏の東部は公孫氏の支配するところとなり、公孫淵は233年に呉から燕王に冊封されます。公孫氏を滅ぼした魏は卑弥呼を親魏倭王に冊封して呉を牽制し、蜀を牽制するについてはクシャーン王国のヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封しています。

当時、魏西部の涼州の諸王も公孫氏と同様の立場にあり、周辺には月氏・康居などの西戎(中国の西に住む異民族)が居住していました。西嶋氏によると、227年に涼州の諸王が西戎の首長20余人を蜀に遣わし、蜀が魏と戦うなら蜀に加担すると申し出させたということです。

西嶋氏によるとこれに対抗して魏は229年にヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封して、西戎の親蜀勢力を牽制しようとしたようです。西嶋氏は当時ヴァースデーヴァ王の権威が失墜していた時期なので、その復興を魏との冊封関係に求めたのかも知れないとされています。

ヴァースデーヴァ王は「親魏大月氏王」に冊封されることによって、西戎諸国をクシャーン王国の支配下に置こうとしたのでしょう。卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことで、倭人社会の盟主であることが認められていたと考えられます。

卑弥呼の遣使は、景初3年の公孫氏滅亡直後の初回以後、①景初3年6月②正始元年、または2年③正始4年④正始6年⑤正始8年、または9年と、卑弥呼の死までほぼ隔年に行われています。

冊封体制には「九服の制」と呼ばれている考え方があり、『魏志』東夷伝の評語にもそのことが見えます。王(皇帝・天子)の住む城を中心にして五百里まで(千里四方)が王の支配する王畿(国畿)で、その外周は五百里ごとに九畿に区分されます。

九畿には諸侯が冊封されますが、王城から五百~千里を候畿といい、候畿に冊封された候服は一年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。千里~千五百里を旬畿といい、旬畿に冊封された旬服は二年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。

千五百~二千里を男畿といい、男畿に冊封された男服は三年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。57年に遣使した奴国王、及び107年に遣使した面土国王は一世に一度遣使すればよい蕃服だったようです。

卑弥呼は隔年に遣使しており、二年に一度入貢する義務のある旬服に相当する高位だったと思われます。秩禄二千石の郡太守は王、候、大夫、士の内の大夫に相当しますが、卑弥呼の元に使者を送ることは、洛陽の皇帝に使者を送るのには及ばないにしても、帯方郡に使者を送る以上の遣使をしたことになると思われます。

秦以後には王は皇帝・天子と呼ばれるようになり、諸侯が王と呼ばれるようになりますが、諸王が権力を持つと皇帝の座を狙うようになることから、政治の実権を持たされず俸禄を受け取るだけの存在になると言われています。

そのような意味では面土国王帥升の倭国王は名目だけで実権の伴わない王だと言えるようです。それに対し三国が鼎立する時代の魏は、卑弥呼・ヴァースデーヴァ王に対しては東夷の親呉勢力、西戎の親蜀勢力を牽制するための手段として、特別に隣国の有力者に魏の官職を与える特権を持たせたと思われます。

魏の官職を与えて懐柔しようというのですが、これを拒絶する者については武力によって討伐することになります。魏は難升米に黄幢・詔書を授与しますが、これは魏が難升米に軍事権を付与して親呉勢力の可能性のある狗奴国を討伐させたということでしょう。 

1 件のコメント:

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