2010年12月19日日曜日

九州説 その4

前回には女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けてみましたが、さらに国名のみの21ヶ国を「自女王国以東」「自女王国以西」に区分すると、女王国の構造がより明確になってきます。

大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て長峡川河口の草野津(かやのつ)に到る、律令制官道の田河路沿いに奴国と伊都国があると考えていますが、そこは倭人伝のいう「自女王国以北」で、そこは面土国王が「刺史の如く」支配している地域です。

豊後(図の大分県部分)には国名のみの21ヶ国のうちの16番目の邪馬国(日田郡)から21番目の奴国(直入郡)までの6ヶ国がありました。(2010年4月投稿『再考・国名のみの21ヶ国』)これを「自女王国以東」とみるのがよいようです。

肥前を横断する肥前路沿いの地域(図の佐賀県部分)が「自女王国以西」で、ここには9番目の対蘇国(基肄郡)から15番目の鬼奴国(杵島郡)までの7ヶ国があったようです。

また豊前には2番目の巳百支国(企救郡)から8番目の沮奴国(宇佐郡)までの7ヶ国がありました。これは「自女王国以北」とも「自女王国以東」とも見ることができますが、倭人伝は「自女王国以北」を遠賀川流域に限定しており、この7ヶ国は国名のみの21ヶ国の範疇に入れています。

女王国の中央に卑弥呼の王城のある邪馬台国があり、卑弥呼の王城の北が「自女王国以北」であって、東西に国名のみの21ヶ国があることになります。投馬国は卑弥呼の王城の南にある「自女王国以南」の国です。

弥生時代は部族が王を擁立する「部族制社会」だったと考えますが、部族の原形は宗族間の通婚が重なって形成された自然発生的な地縁・血縁集団でしょう。部族が国を形成したものが部族国家で、部族国家は古墳時代になると国造・県主・稲置・君・公などの姓(かばね)を与えられた部族長が支配し、律令時代になると郡になるようです。

部族国家が統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になりますが、紀元前1世紀に倭の百余国が遣使するまで、筑前西半の各郡はそれぞれ部族国家を形成していたでしょうが、百余国の遣使以後には統合が進んだことにより、部族国家と部族連盟国家の中間の形態の邪馬台国が形成されるようです。

戸数二万の奴国は田河路沿いの鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、この場合の郡当たりの戸数は約7千戸になります。伊都国のように千戸程度の国もありますが、平野部の人口密度の高い国の戸数は7千戸になるようです。

戸数七万の邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の、西半の10郡ほどになりそうです。筑前西半には上座・下座・夜須・三笠・糟屋・席田・那珂・早良・怡土・志麻の10郡がありますが、邪馬台国は志麻郡を除く9郡と考えるのがよいようです。

考古学的な面から見ても地政学的な面から見ても、邪馬台国は福岡平野を中心とする筑前西半に在ったと見るのが妥当です。筑前西半が統合されるについては、その中核になったのは春日市の須玖岡本遺跡の周辺(那珂郡)だと見るのがよさそうです。

しかし卑弥呼は倭国大乱を鎮めるために王になりました。卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、福岡平野の中心部を避けて、筑前・筑後だけでなく肥前と豊後にも接している朝倉郡・夜須郡を王城の地としたと考えます。

志麻郡は国名のみの21ヶ国の最初の斯馬国であり、志麻も斯馬もかつて糸島半島が島であったことによる郡名・国名だと考えます。島であったために戸数も少なく対岸の怡土郡との通婚も希薄で、部族国家の状態を脱することができず、邪馬台国に統合されることがなかったのでしょう。

「自女王国以東」の豊前・豊後に13ヶ国、及び「自女王国以西」の肥前の佐賀県部分に7ヶ国があったことになり、その合計は20ヶ国になります。三郡山地以西の筑前に斯馬国以外の国名のみの21ヶ国が存在する余地はないようです。

投馬国は筑後だと考えますが、国の平均戸数を7千戸とすると、戸数五万の投馬国は律令制の7郡ほどになりそうです。筑後は10郡ですが筑後川の沖積や、流域の治水が進んだことなどにより郡数が増したことが考えられ、筑後にも国名のみの21ヶ国はなかったでしょう。

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