2010年9月12日日曜日

神社 その4

武帝の時代に儒教が国教になったことにより、儒教の礼が外交儀礼の礼式として流入してきますが、やがて神道の原形と儒教が融合し冊封体制下の倭人の王も儒教の礼に基づく統治を行なうようになると考えます。日本の神道と儒教には類似する点が多いのです。

儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。

本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです

神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。

青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。

私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです

今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。

その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。

兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。

遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。

遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。

加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。

大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。

銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。

ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです

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