2010年1月17日日曜日

安芸の埃宮

筑紫の岡田宮を出立した天皇は『古事記』では安芸の多祁里宮(たけりのみや)に7年、『日本書紀』では埃宮(えのみや)に2ヶ月強滞在したとされています。吉備の高島宮の滞在は船を準備し兵糧を蓄えるためだとされていますが、安芸滞在の目的がよく分かりません。

多祁里宮は安芸郡府中町の多家神社付近とされていますが、それとは別に埃宮(えのみや)の在ることが考えられます。広島県北部と島根県を流域とする江の川(ごうのかわ)は、古くはエノカワと呼ばれており、現在でも上流部の広島県内では可愛川(えのかわ)と呼ばれています。

『日本書紀』の一書はヤマタノオロチを退治したスサノオは「安芸の国の可愛の川上」に下ったとしていますが、可愛川沿いの安芸高田市吉田・清神社がその伝承地になっていて、スサノオ・クシイナダビメ、テナズチ・アシナズチなどを祭神にしています。これも埃宮と関係が有りそうです。

埃宮は可愛川のほとりにあった宮と考えることができそうです。現に埃宮は高田郡可愛村(現安芸高田市)の吉田、山手付近にあったとされています。吉田には毛利氏の居城の吉田郡山城が在り、出雲の尼子氏と覇権を争ったことで知られていますが、出雲と安芸を結ぶ出雲街道(現国道54号線)の要衛になっています。

その江の川流域にはなぜか青銅祭器が見られません。島根県内の出雲では荒神谷・加茂岩倉を始めとする大量の青銅器が見られるのに、そのそばの江の川流域にはほとんど見られません。広島県内でも瀬戸内海に流入する河川流域には平形銅剣が見られるのに、その中間の江の川流域には見られないのです。

江の川は流長では全国8位、流域面積では10位の大河ですが、その上流の可愛川流域は備後・出雲国境を越える出雲街道で荒神谷・加茂岩倉遺跡に直結しています。そのような場所に青銅祭器がないのには何らかの理由がありそうです。このことは備中(岡山県)の高梁川 上流域についても言えることです。

島根大学の山本清氏は山陰は8国52郡387郷だから、荒神谷遺跡の銅剣358本は郷ごとに1本が配布されたと考えて「山陰地方連合体」存在したという考えを提示しました。広島県内の江の川流域は行政区画上では山陰ではありませんが、土器の形式や四隅突出型墳丘墓が存在するなどその文化は明らかに山陰に属しています

今まで全く考えられていなかったことですが、神谷・加茂岩倉遺跡の青銅祭器には江の川流域から回収されたものがあると考えなければならないようです。16本の銅矛についても、中・四国の銅矛の分布の中心は四国西部ですから、江の川流域でも瀬戸内に近い場所から回収されたと考えるのがよいでしょう。

青銅祭器が存在していることは倭人社会に部族が存在しているということですが、部族は部族国家を形成していました。先に荒神谷・加茂岩倉遺跡の青銅祭器はオオクニヌシの国譲りで埋納されたと述べましたが、私は最近、国譲りがそのまま埋納と結びつくとは限らないと思うようになっています。

神武天皇の即位で部族国家が解体され氏姓制度に移行するのであれば、荒神谷・加茂岩倉遺跡に青銅祭器が埋納されたのはオオクニヌシの国譲りの時とするよりも、神武天皇の埃宮滞在中に氏姓制に変わったことによる考えたほうがよいと思うようになってきています。

国譲りの説得に遣わされたアメノホヒ(天菩比)は出雲国造の祖とされていますが、これも神武天皇の埃宮滞在中に氏姓制に移行したことによる考えるのがよいようです。その延長線上に大和のニギハヤヒの服属があり、その前提として筑紫の岡田の宮滞在中の遣使があるように思います。

ここで述べていることは、江の川流域に青銅祭器がないのは荒神谷・加茂岩倉遺跡に埋納されたからだという仮定によるものですが、そうであればこの地方、ことに出雲に部族を統治するための、相当にしっかりとした統治制度があったことが考えられます。

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