弥生中期後半(1世紀)になると江南から流入してきた神道の原形に儒教が融合するようです。周王の姓は姫氏ですが周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っていました。姫姓の諸侯は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主宰することはできません。
周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。
孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。
前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。
しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。
新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。
元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。
それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。
礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。
区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。
これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう
この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。
この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。
西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。
それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。
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