2011年3月20日日曜日

一大率 その3

女王制では女王の統治権と一大率の軍事・警察権、及び大倭の経済権がそれぞれ独立していたようです。面土国王は帯方郡・諸韓国からの使節だけでなく、女王の派遣する使節をも捜露していますから、倭人伝の一大率と「如刺史」とは別の官職であり、面土国王は外交権を掌握していたことが考えられ、4権が分立していたことが考えられます。

天孫降臨は台与の後の王(ホノニニギ)の時代に侏儒国が併合されたということのようですが、これは軍事行動であり、一大卒の軍事・警察権を干犯する行動だったと思います。タケミカズチ・フツヌシが出雲の大国主に国譲りさせるのも同様であろうと思います。

サルタヒコの問いかけに対して、アメノウズメが「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と答えているのは、一大率が廃止されて、台与の後の王(ホノニニギ)に軍事権が付与されたということだと思います。

『古事記』の神話を語り伝えた稗田氏はアメノウズメとサルタヒコの子孫とされています。香春付近に猿田彦の石塔が多いことから見て、周辺にアメノウズメに関係する猿女氏、あるいは稗田氏の伝承がありそうなものですが、アメノウズメは芸能の神とされているためか、残念ながらそれが見当たりません。

田川郡糸田町に稗田という集落がありますが、立地が中元寺川の河川敷と思われることから見て後世に生まれた地名のようです。その点では香春に近い行橋市にも稗田がありこちらは相当に古い歴史があるようです。

豊前風土記に曰く、宮處の郡(みやこのこおり)、古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し天照大神の神京なり。云々
                                  (中臣祓氣吹抄上)

この文は邪馬台国=京都郡説の有力な根拠になっていますが、狭間畏三氏は『神代帝都考』でこの地方を高天が原としています。この文によればホノニニギの天孫降臨の出発地も京都郡ということになり、サルタヒコが田川郡(伊都国)にいたのであれば、アメノウズメが京都郡(伊弥国)にいてもおかしくはありません。

行橋市草葉の付近は往古、律令制官道の要港になっていて「草野津」と呼ばれ、田川郡を経由して大宰府に至る田河路の起点になっていました。その周辺が「宮處の郡』ですが、草野付近には稗田や椿市など、猿女君・稗田氏に関係すると思われる地名が見られます。

行橋市稗田の氏神は大分八幡宮で、南北朝期に筑前国穂波郡の大分八幡宮が勧進され、本殿の祭神を神功皇后・応神天皇・比女大神とし、相殿の祭神を大山咋としています。奈良時代以前にも小祠があったということですが、サルタヒコが祭られていたと思います。

大山咋は滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ・ひよし)神社の祭神で、日吉神社は比叡山延暦寺の地主神とされ、天台仏教と神道が融合した山王信仰の中心になっています。山王信仰は「修験道」とも言われていて「役行者」の名が知られています。

その特徴は山を修行の場とすることで、各地にそうした山が存在していて、九州では英彦山が中心になっています。その伝説上の行者は「豊前坊」と呼ばれ、豊前坊はオシホミミ(忍穂耳)が降臨してしまったので、役行者が英彦山で修行した時に出現したとされています。

求菩提山(豊前市境)には烏天狗の伝説があり、国東半島の「六郷満山」も修行の場として知られています。サルタヒコと修験道の行者が融合して天狗になるようですが、山王信仰ではサルタヒコと猿が結び付けられて、猿が神の使いとされています

大分八幡宮の大山咋は平安時代に英彦山を中心とする山王信仰が広まったことにより祭られるようになったのでしょう。天正8年の遷宮で本殿の祭神は神功皇后・応神天皇・比女大神になり、大山咋は相殿の祭神になったということです。

このことから稗田の地名の由来は日吉(ひえ)の神である大山咋の神領であることによると考えられているようですが、山王信仰はサルタヒコや猿と関係しています。前回に述べた奈良県大和郡山市稗田の賣太神社や、三重県鈴鹿市の椿大神社との関係を考えてみる必要があるように思います。

豊前のサルタヒコは英彦山・求菩提山の山王信仰と融合して猿に変わっているようです。私は京都郡を国名のみの21ヶ国の3番目に見える伊邪国と考えるので、邪馬台国=京都郡が成立するとは思っていませんが、「天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき」はこの地方に猿女君・中臣氏・大伴氏などの伝承があったことによるのでしょう。

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