2010年4月28日水曜日

夫余伝と稍

毌丘倹の軍勢は逃亡した高句麗王の位宮を追撃しますが、川が増水したために追い詰めることができず兵を返します。そこで翌6年に改めて討伐が行われますが、再討伐では高句麗王を匿う可能性のあった夫余・濊貊・東沃沮も対象になりました。

玄菟郡太守の王頎は玄菟郡冶(遼寧省撫順付近)を出立し、夫余国都(吉林省農安付近)まで行っています。夫余王は迎効(国都の郊外で出迎える儀式)を行い、また軍糧を提供するなど敵意の無いことを示しています。

さらに夫余王は季父(年齢の近いおじ)父子を殺しています。夫余国都は高句麗が精強になったために西に移ったと言われていますが、殺された季父親子が高句麗に近い部分を支配しており、高句麗王を匿う可能性があったのでしょう。

夫余は長城の北に在り。玄菟を去ること千里。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接す。北に弱水有り、方二千里ばかり。

「玄菟を去ること千里」とは「玄菟郡冶を去ること三百里」に夫余の国境があるという意味です。遼寧省開原の北で柳条片牆が南北に分岐していますが、このあたりに玄菟郡と夫余との国境の長城があったようです。

夫余国都の北に松花江があります。弱水については黒龍江とする説もありますが、「方二千里可」との兼ね合いから見て、松花江とするのがよいでしょう。玄菟郡と夫余の国境の長城から松花江まが、夫余の広さの「方二千里可」です。

夫余王は季父親子を殺しますが、この時季父親子は第二松花江の上流部(吉林省の松花湖付近)を根拠地にしていたようです。夫余には夫余王の支配する地域と季父親子の支配する地域があり、事実上は2つの国だったように思われます。

左図の赤線は私の考える王頎の経路ですが、夫余王の国都の農安付近を「北夫余国都」とし、それに対し、季父親子の根拠地と推定される場所を「南夫余国都」として区別してみました。そうしないと挹婁伝の記述との間に矛盾が生じてきます。

挹婁は夫余の東北千余里にあり、大海に面し南は北沃沮と接す。其の北の極まる所を知らず。

文献には見えませんが、私は王頎も夫余王の兵と共に第二松花江に沿って南下し、季父親子の根拠地を攻撃したと考えています。挹婁伝の地理記事はこの時の王頎の見聞で、季父親子の根拠地と推定される場所の東北三百余里に夫余と挹婁の国境があるというのでしょう。

挹婁はロシアの沿海州方面とされていますが、東北三百里なら北朝鮮の東北部から吉林省の延辺朝鮮族自治州にかけての、図満江流域であることが考えられます。「其の北の極まる所を知らず」とは、そこまでが中国の冊封体制の及ぶ所だというのでしょう。

東沃沮についても稍の考え方でその位置を推定することができますが、東沃沮伝の地理記事も高句麗王の位宮を追撃した王頎の見聞によるものです。

東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り、大海に浜して居す。其の地形は東北狭く西南長く千里ばかり。北は挹婁・夫余と、南は濊貊と接す

蓋馬大山は両江道の蓋馬高原のことで、大海は日本海です。この文から王頎が蓋馬高原の東側を南下して日本海に達したことがわかります。夫余の南境と日本海の間が「西南長く千里ばかり」の三百里です。

6年には楽浪郡太守の劉茂、帯方郡太守の弓遵も濊貊を攻撃しており、位宮は濊貊に逃れることはできず東沃沮に遁走したようです。王頎は位宮を追跡して東沃沮を縦断し、挹婁の南境まで進んでそこに石碑を立てています。濊貊については次のように述べられています。

南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接す。東は大海に窮まる。今朝鮮の東は皆其の地也

王頎が濊貊に行った形跡はなく、そのためにこの文には距離の記載がないようです。濊貊は蓋馬高原の南にあり、国土が海岸に沿った地域に限られているために稍の形になっていませんが、「今朝鮮の東は皆其の地也」とあることから見て、楽浪郡冶の東三百里」に濊貊との国境があることが推察されます。

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