三角縁神獣鏡が畿内を中心して分布しているのは、初期の大和朝廷(葛城王朝)がその統治が及んだ地域に配布したからで、邪馬台国が畿内にあったということではないようです。纒向遺跡も邪馬台国や卑弥呼とは関係がなさそうです。
纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して出現すると考えますが、北部九州に女王を中心とする統治機構ができ、その影響を受けて大和盆地の東南部を中心とする新たな統治機構が出現するのでしょう。初期の纒向遺跡の性格については「出雲神在祭」が参考になると考えています。
小説家・思想家の白柳秀湖は出雲神有在祭がツングース族の「ムニャーク」という「寄り合い評定」、つまり有力者を招集して行なう「合議制統治」に似ているとしています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり国政論じ、それは統領の任免にまで及んだということです。
江上波夫氏は匈奴では遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会が開かれ、それには匈奴国家を形成する全部族が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたとしています。
島根県荒神谷遺跡の380、加茂岩倉遺跡の39個という大量の青銅祭器については、匈奴の例のように強制力のある「寄り合い評定」で埋納が決定され実行されたと考えていますが、青銅祭器は宗族ごとに1本(1個)が配布されたようです。
そうすると出雲の「寄り合い評定」には419人、あるいはそれ以上の宗族長が参集したことになりますが、これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったでしょう。
ツングース族の「ムニャーク」で族長がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたことが考えられます。ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られたということです。
纒向遺跡も巻向川・烏田川の扇状地にありますが、大和朝廷成立以前にはこの扇状地に通常は市場で、非常時には「寄り合い評定」を行なう広場があったと考えます。纒向遺跡の位置は律令制の城上郡大市郷に当たりますが、大市は飛鳥・奈良時代に市場があったことに由来すると言われています。
古墳時代に入ると纒向遺跡は初期大和朝廷の政治の場になり、後に政治の場は南の飛鳥に移るようです。市場としての機能も、より政治性の強いものは飛鳥に近く紀伊や伊勢との交通に便利な桜井市金屋の海柘榴市に移り、生活に密着したものが纒向に残って、大市郷という郷名が生れると考えます。
石野博信・関川尚功氏は纒向遺跡の土器を1類~5類に類別されていますが、1類は「畿内第Ⅴ様式」に、2~4類は「庄内式」に、5類は「布留Ⅰ式」に並行するとされ、石野氏は1類を180~210年ころとされています。
石野氏は纒向遺跡を「2世紀末に突然あらわれ4世紀中ごろに突然消滅した大集落遺跡」と言っていますが、畿内の年代は20~30年程度古く見られていると感じています。纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して現れ、4世紀後半以後の天皇(13代成務天皇以後)が近江や河内など、大和以外の土地に本拠を移したために消滅するのでしょう。
纒向遺跡では初期の遺構は少なく、集落も環濠もなく出土したのは銅鐸片と二つの土坑のみとされ、その最盛期は3世紀終り~4世紀初めとされていますが、最盛期は20~30年程度新しく見て、4世紀前半とみるのがよいと思っています。
大和朝廷が成立するのは270年ころで、それは纒向式2類のころだと思っています。纒向式1類の時期の纒向遺跡は平常時には市場だが、非常時には有力者が集まって「寄り合い評定」をするための広場だったと考えます。
卑弥呼の宮殿ではないかといわれている纒向遺跡の大型掘立柱建物の柱の間には、南北方向に床を支えるための細い束柱があり、建坪以上に多人数を収容する構造になっていたようです。その建物は平城京の大極殿に相当する施設でしょう。
初期の天皇は地方豪族の棟梁に過ぎず、その皇宮も粗末で大型の建物が必要になり、纒向式1類の時期には市場や「寄り合い評定」の場になっていた纒向に大型の建物が建てられ、その建物は今の国会議事堂のような役割を果たしていたと考えます。
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