2010年12月5日日曜日

九州説 その2

宇美を不弥国とし糸島郡を伊都国とし、那珂郡を奴国とする通説を肯定すると邪馬台国の位置論は混迷しますが、それは現状を見れば明らかで「神功皇后の呪縛」が横行しているようです。九州説も通説から離れないと事実は見えてこないように思われます。

伊都国・奴国を佐賀平野・筑後平野方面とする説がありますが、これらの説は南を東の誤りとし、糸島郡を伊都国とする通説を否定することから生れたもので、結論はどうであれ通説から離れる姿勢は評価されるべきだと思います。

私は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半を邪馬台国とし、東半には面土国・伊都国・奴国・不弥国があったと考えていますが、古田武彦氏も邪馬台国を福岡平野とされていて、筑前西半に伊都・奴・不弥・邪馬台の4ヶ国があったとされています。

伊都国は糸島郡の半島部分、奴国は糸島郡の平野部分、不弥国は福岡平野東部の海岸地帯、邪馬台国は福岡平野とされています。古田氏の立論は難解で私には理解ができないのですが、投馬国は九州南端の薩摩・大隈とされています。

推察になりますが古田氏も通説から離れることができず、通説で奴国とされている福岡平野を戸数七万の邪馬台国としたために、二万の奴国を糸島郡の平野部分としなければならず、五万の投馬国を薩摩・大隈としなければならなかったのでしょう。

このような状況は通説に囚われたことにより生じていますが、これを打破する考え方はあるでしょうか。しつこく述べるのでうんざりされるでしょうが、新しい解釈が出てきたのでまた繰り返します。

租賦を収めるに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易す。大倭をして之を監す。女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

「国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り」と訳した部分の原文は「於国中有如刺史」ですが、『大辞泉』によると「於」の文字が用いられるのは 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき、だということです。

時間を表すときには「の時に」という意味になり、場所を表す場合には「で」「にて」という意味になるということですが、場合や事柄を表すときには「に関して」「について」「にあって」という意味になるのだそうです。

一大率があたかも刺史のようだという通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味になるようです。しかし「に関して」「について」では意味が不明瞭になります。通説は「伊都国中にあって刺史の如し」という意味に解釈されているようです。

この「にあって」は「に有って」という意味ではなく、国の中での「刺史の如き者の立場」が述べられています。この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国の存在は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。

「於国中有」の文字が見られるのは4の、仮定条件の伴う場合だということのようです。その場合には係助詞の「は」が付随して意味が変わり、「国中に於いては刺史の如き有り」となり、この文には何かが仮定されており、条件が伴っています

倭人伝中の各国には官と副(官)が置かれており、官は中国の郡太守に相当するようです。その郡太守よりも上位に「州刺史」がいますが、魏・晋代の刺史は前漢代のそれとは違い最高位の地方行政官で、州の長官です。その仮定条件は「中国の州」のようです。

通説の解釈との違いは微妙ですが、伊都国は中国の郡に相当し、州に相当するとは思えません。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定されているのです。それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になっています。

「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「州刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。私はこれを「第3の読み方」と言っています。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということで、漢文でも「於」の文字は仮定条件の伴う時に使用されるようです。「第3の読み方」は可能のようで、「自女王国以北」に面土国が存在したと考えてよいようです。

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