2010年10月26日火曜日

三角縁神獣鏡 その4

前回の投稿では画文帯神獣鏡は魏の滅亡、大和朝廷の成立以後にも威信財としての価値があり、同じ時期に三角縁神獣鏡が国産されたと述べました。銅鏡は古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを示す威信財になるようです。

初期の天皇の皇宮・陵墓は9代開化天皇までは大和の高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり葛城王朝と呼ばれ、10代祟神、11代垂仁、12代景行の3代の皇宮・陵墓は磯城郡の三輪山周辺にあり三輪王朝と呼ばれています。

ところが13代成務天皇以後の皇宮は大和盆地から離れています。成務天皇は近江の高穴穂宮、14代仲哀天皇は長門の豊浦宮、あるいは筑紫の香椎宮を皇宮としています。15代が応神天皇ですが応神以後は河内王朝と呼ばれています。

仲哀天皇と応神天皇の間には何年間かの空位期間があり、その間は神功皇后が摂政として政務に当ったとされていますが、『日本書記』神功皇后紀の記年によれば、皇后は169年に生まれ269年に100歳で死んだことになっています。

これについては神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために、干支2運、120年が繰上げられている考えられています。義煕9年(413)に東晋の安帝に方物を献じた「倭の五王」の「讃」を16代仁徳・17代履中のいずれかとすると神功皇后の時代は4世紀の終わりごろでなければいけません。

干支2運、120年を繰下げると皇后の死は389年になり、実態に近くなります。安本美典氏は古代天皇の平均在位年数を10、3年とされていますが、仮に応神即位を390年とし、仲哀即位を380年とすると、景行・垂仁・祟神の三代の三輪王朝は360~340年になり、開化~神武の葛城王朝は330~250年になります。

私は神武天皇の即位を270年ころ、また祟神天皇の即位を360年ころと考えていて20年ほどの差がありますが、いずれにしても古墳時代の始まる3世紀後半に大和朝廷が成立し、葛城王朝は4世紀前半までで、三輪王朝は4世紀後半の早い時期と考えることができます。

5世紀が近くなると天皇の皇宮・陵墓は大和盆地から離れますが、三角縁神獣鏡を副葬する古墳の多くは4世紀中葉から後半のもので、これは三輪王朝期以後に当ります。三角縁神獣鏡に威信財としての価値があったのは葛城王朝期であり、三輪王朝期になると威信財としての価値がなくなるようです。

開化天皇までの8代は「欠史八代」と呼ばれ事績がほとんどありませんが、これが葛城王朝です。三輪王朝になると祟神朝の四道将軍の派遣や、景行朝の倭建命の熊曾・出雲・東国征伐に語られているように、大和朝廷の支配は全国に及びます。

三輪王朝では「氏姓制」が定着して天皇の統治は絶対的なものになり、『古事記』は祟神天皇を「初国知らしし天皇」と称えています。葛城王朝は存在してはいるものの弱体だったが、三輪王朝になると大和朝廷の支配が確立したというのでしょう。

天照大御神は卑弥呼・台与が合成されたものですが、その5世孫が神武天皇とされており、葛城王朝は卑弥呼の「親魏倭王」の王統を継承していると考えられていたようです。それを象徴するのが画文帯神獣鏡であり、三角縁神獣鏡は存在感の薄かった葛城王朝が存在を誇示するために画文帯神獣鏡をモデルにして鋳造し配布したものでしょう。

天理市黒塚古墳では棺内の遺骸の頭部に画文帯神獣鏡が立てて置かれ、棺外の石室の壁面に33面の三角縁神獣鏡が並べて置かれており、その価値は画文帯神獣鏡のほうが高いのではないかと話題になりましたが、葛城王朝が卑弥呼・台与(天照大御神)の王権を継承していることを大義名分にしていたことを表しているようです。

三角縁神獣鏡の記年銘はすべて卑弥呼の時代のものです。記年銘は「親魏倭王」の称号が魏から与えられたもので、葛城王朝がそれを継承していることを表し、呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡は、晋による中国再統一以後には呉も卑弥呼が倭国王であることを認めていたとされるようになることを表しているのでしょう。

『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、『古事記』『日本書記』の記述からみると、応神天皇は天照大神(卑弥呼・台与の統治)に連なる皇統とは別系の、継体天皇の出自と関係する天皇のように思われます。

皇宮・陵墓が大和を離れる13代成務天皇以後には、葛城王朝が大義名分にしていた天照大神(卑弥呼・台与の統治)の王権を継承しているとする考えが否定されるようです。三角縁神獣鏡の威信財としての価値は三輪王朝以後にはなくなり、河内王朝期には大半が副葬されていたと考えます。

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