2010年12月12日日曜日

九州説 その3

前回には「第3の読み方」が可能であることを述べましたが、面土国は3世紀にも実在していました。それは筑前宗像郡であり、方位・距離の起点は宗像市田熊・土穴付近です。そして面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しています。

1、従郡至倭、循海岸水行、暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国
2、始度一海千余里、至対海国
3、又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国
4、又渡一海千余里、至末盧国

末盧国までは「循海岸水行」「暦韓国」「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」の文字や文が示しているように明らかに直線行程ですが、伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られなくなります。

5、南陸行五百里、到伊都国
6、東南至奴国百里
7、東行至不弥国百里
8、南至投馬国、水行二十日
9、南至邪馬台国、女王之所都、水行十日水行一月

倭人伝の地理記事には末盧国と伊都国の間に断絶がありますが、この断絶について高橋善太郎氏は伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られないことから、末盧国を起点とする放射行程だとしています。

全体を直線行程とする説がありこれもやはり微妙ですが、私は女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けるのがよいと考えています。

国名のみの21ヶ国のグループ分けには異論はないでしょうが、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする放射行程説に従うと、末盧国までが「従郡至倭」の行程の国であり、少なくとも伊都・奴・不弥の3ヶ国「自女王国以北」の国になります。

「自女王国以北」があるのであれば「自女王国以南」や「自女王国以西」「自女王国以東」もなければいけませんが、倭人伝には「自女王国以南」という記述はありません。実はこの「自女王国以南」という観念がないために混乱が生じています。

倭人伝に「自女王国以北、其戸数道里、可得略載、其余傍国遠絶、不可得詳」とあります。中国人が地理を示す場合には王城が中心になりますが、「自」は起点のことで倭国の王城、すなわち卑弥呼の王城が「自」になります。

伊都国・奴国、不弥国の距離は示されていますが、邪馬台国・投馬国の距離は示されていません。卑弥呼の王城よりも北が「自女王国以北」で、そこに伊都・奴、不弥の3ヶ国があり、戸数と道里を略載することができるというのです。

邪馬台国は女王国の中央にある「自」そのものであり、投馬国は「自女王国以南」の国になります。倭人伝の記述目的からすれば投馬国・邪馬台国は「自女王国以南」にある「其の余の傍国」なのです。

しかし戸数7万・5万の大国を国名のみの21ヶ国と同一視することはできず、方位と戸数は記しているものの道里は省略しています。倭人伝は邪馬台国や投馬国の位置を述べようとはしていません。私たちがそう思っているだけなのです。

直線行程説には「自女王国以南」という認識がなく、伊都国~投馬国間が「水行二十日」とされ、投馬国~邪馬台国間が「水行十日陸行一月」とされています。放射行程説も同様で投馬国の位置が定まらず、恣意的に決められています。

前回の投稿では「於国中有如刺史」は仮定条件を伴っている文で、「於」は「自女王国以北」に懸かる文字であることを述べました。「自女王国以北」が卑弥呼の王城のある邪馬台国や「自女王国以南」の投馬国に対して、中国の州のように半ば独立した状態にある仮定されています。「半ば独立した状態」であることに留意する必要があるようです。

「有」の文字は伊都国とは別に「刺史の如き者」のいる国が有ることを表していますが、その国が面土国であり、面土国も「自女王国以北」の国に含まれます。九州説にも説得力がないのは面土国の存在が考えられていないからです。

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