邪馬台国の所在については九州説と畿内説が対立していると言えますが、畿内説では奈良県纒向遺跡を邪馬台国の王都とし、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。その他にも多くの説がありますが、方位・距離を無視すれば邪馬台国はどこにでも比定できます。
その中には博多の梓書院前社長、田村明美氏をして「おらが邪馬台国原稿」と言わしめるものも出てくることになります。邪馬台国や卑弥呼の墓は歴史愛好家にとってはロマンですが、同時に史学の一分野でもあり事実を追及する姿勢も必要です。
畿内説は方位・距離を考慮に入れないことを前提にしています。通説では伊都国は糸島郡とされ奴国は福岡平野とされていますが、この通説自体が倭人伝の地理記事と合いませんから、邪馬台国の位置についても方位・距離を考慮する必要はないとも言えます。しかし方位・距離を無視することは邪馬台国の存在そのものを否定することにならないでしょうか。
以下は私の考えている九州説ですが、面土国が3世紀にも実在しており、それは筑前宗像郡であることを前提にしています。面土国は倭人伝の地理記事の末盧国と伊都国の中間に位置していると考えていますが、これは通説の南を東と見る考えを無視したもので、「同じ穴の狢」だと言えなくもありません。
しかし方位・距離を無視しているわけではありません。その起点は宗像市田熊・土穴付近であり、一里は65メートルだと考えています。付近は宗像大社の「根本神領」とされ、一昨年には田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土して話題になりました。畿内説と比較してみてください。
倭国(女王国)は律令制の筑前・筑後・豊前・豊後・肥前東半と考えています。これは現在の福岡・佐賀・大分の3県になりますが、朝鮮半島から渡来してきた「渡来系弥生人」の形成する国です。
邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半の10郡ほどであり、東半には「自女王国以北」の国である面土国・奴国・不弥国がありました。投馬国は筑後の10郡ほどであり、豊前・豊後・肥前東半には国名のみの21ヶ国がありました。
狗奴国は肥後と肥前西半で、熊本・長崎の2県になりますが、「熊襲」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。元来の熊襲は肥(肥前・肥後)の住民のようですが、青銅祭器の分布から見て、肥後の北半と肥前東半の熊襲は「渡来系弥生人」と融合するようです。その結果、肥前東半(佐賀県部分)は女王国に属することになると思われます。
侏儒国は薩摩・大隅・日向で、後に「隼人」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。侏儒とは住民が低身長であることを表していますが、現代でも成人男性平均身長が160,7センチと低身長であることが観察されています。
倭人伝の記述している「女王国」や「倭」あるいは「倭地」は現在の九州であり、それよりも以東は「船行一年」でその東端に至ることのできる、「倭の種」の住むところとして区別して考えるのがよいと思っています。
その「倭の種」の国には出雲(中国・四国)や越(北陸)の国があり、固有の呼び方はありませんが大和や尾張を中心とする国もありました。出雲は銅剣・銅鐸を宗廟祭祀の神体とする部族の国ですが、大和や尾張は近畿式・三遠式の銅鐸を神体とする部族の国です。
九州説と畿内説とは「水掛け論」になりそうです。その原因の一つに畿内説がその論拠を初期古墳の存在と、古墳に副葬されている三角縁神獣鏡に求めていることにありそうです。畿内説では方位・距離は考慮されていませんが、これも原因の一つでしょう。
三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使して銅鏡百枚を賜与された景初3年(239)の記年銘を持つ島根県神原神社古墳出土鏡や、その翌年の正始元年の記年銘を持つ3面などがありますが、三角縁神獣鏡は畿内を中心にして400面以上が出土しています。
三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと推定される画文帯神獣鏡も60面ほどが出土していますが、景初3年の銘を持つものが大阪府泉黄金塚古墳などから出土しています。これも三角縁神獣鏡と同様に畿内とその周辺で出土することが多いとされています。
畿内やその周辺に三角縁神獣鏡の多いことは畿内説に有利ですが、副葬されている古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされています。記年銘とそれが副葬されている古墳の年代の間には100年かそれ以上の差がありますが、この差は何を意味するのでしょうか。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とされるのは、 三角縁神獣鏡に景初・正始などの記年銘を持つものがある ⇔ 三角縁神獣鏡は畿内に多い ⇔ 箸墓古墳の築造は古墳時代初頭 ⇔ 箸墓古墳は卑弥呼の墓、 という論法のようですが、箸墓古墳から三角縁神獣鏡が出土したわけではありませんし、100年もの年代差があると、この論法は成立しないと考えるのがよさそうです。
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