2010年5月8日土曜日

倭人伝と稍 その1

韓伝・倭人伝の千里は三百里ではなく半分の百五十里のようです。百五十里は65キロですが、このことはその場所の明確な一支国(壱岐)の広さの「方三百里」、対馬国(対馬上島)の「方四百里」からも推察することができます。

壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は62,5メートルになりますが、この場合の一里は60メートルほどになります。

対馬海峡の巾は55キロほどであり、対馬の厳原と壱岐の勝本間も55キロほどで、これだと一里は55メートルになります。問題は一支国と末盧国の間の千里ですが、方位が示されておらず、呼子付近では近すぎるということで唐津とする説があります。

東夷伝の方位・距離の終点は国境ですから、東夷伝の記述目的からすれば千余里の終点は末盧国の海岸であればどこでもよいのです。倭国のおおよその方向が「帯方の東南の大海の中」と示されていますから、末盧国の距離を示して倭国の国境が分かればよいというのでしょう。

千余里の終点というわけではありませんが、私たちにしてみれば末盧国の記事にある光景はどの地点のことか気になります。私は「山海に浜して居す」などの記述から、唐津平野ではなく、呼子の光景であろうと思っています。

韓伝・倭人伝の千里は百五十里になりますが、東夷伝の千里には「王城を去ること三百里」に国境があるという意味もあります。韓伝・倭人伝の場合には三百里ではなく百五十里に国境があるという意味になることになります。

冊封体制は魏(中国の王朝)の制度であって郡の制度ではありませんが、通常の実務は郡が担当します。魏と関係する時には千里を三百里と思わなければならず、帯方郡と関係する時には百五十里と思わなければならないようです。

前回に韓の「方四千里」が実際には六百里四方であることを述べました。これは他の諸伝の「方二千里」に当りますが、稍の考え方の「方六百里」でもあります。

上の図は以前にも載せていますが、宗像郡土穴・田熊(面土国)を起点とした方位・距離を示しています。赤線の間隔は韓伝・倭人伝の場合の千里になり、他の諸伝の場合の五百里になりますが、いずれも65キロです。

私は女王国をそのまま佐賀・福岡・大分の3県と考え、狗奴国を熊本・長崎の2県と考え、侏儒国を鹿児島・宮崎の2県と考えればよいと思っています。女王国は渡来系弥生人の国で通婚関係にあった宗族に青銅祭器を配布しています。

狗奴国は縄文系弥生人の熊襲の国で、肥後の北半は青銅祭器を受け入れていますが、その他の地域は受け入れていません。侏儒国もやはり縄文系弥生人の隼人の国ですが、熊襲と隼人には形質的、地域・文化的な違いがあるようです。

その国境を二つの図で比較してみると、韓伝・倭人伝のいう二千里までが女王国になり、二千~四千里が狗奴国になり、四千~六千里が侏儒国になります。二千里ごとに国境がある見ることができますが、この二千里は他の諸伝の千里(130キロ)になります。

参考までに。倭の地は「惑は絶え惑は連なり、周旋五千余里ばかり」とありますが、これは長崎から鹿児島にかけての九州西海岸の距離です。

倭人伝は侏儒国について「女王を去ること四千余里」と記しています。これは田熊・土穴(面土国)の南四千里に狗奴国と侏儒国の国境があるという意味ですが、それを図で見ると肥後と薩摩の国境になります。倭人伝にはその距離が記されていませんが、筑後と肥後の国境が女王国と狗奴国の国境のようです。

それとは別に魏との冊封関係から、三百里(260キロ)を千里とする考え方も存在したようです。倭王は韓と同様に、冊封体制によって魏から四千里(韓伝・倭人伝以外の諸伝の二千里)四方を支配することを認められていたようです。

卑弥呼は女王国の王として二千里を実質的に支配していましたが、倭王としては四千里四方を支配する権限を持っていました。四千里には狗奴国も含まれることになりますが、狗奴国はこれを認めず、このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。その結果として卑弥呼の支配領域は実質二千里四方になっているのでしょう。

1 件のコメント:

  1. 唐の占領軍隊の駐留場所は大宰府?だったのでしょうか。何かそれに絡んで言葉地名などが残っていないでしょうか? 唐に絡むもの、唐の政治言葉・・・。一説では2000人程度の駐留だったとの説もあり。九州倭王朝が負けて勢力を衰えていった時期、九州では占領されてどのような扱いを受けていたのでしょうか?

    一つの調査参考資料です。
    九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
     こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
     この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れています

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